江戸の名残と軍都の痕跡ー六本木の旧軍跡地と在日米軍ヘリ基地
2023年1月29日におこなわれたフィールドワーク「六本木の旧軍跡地と在日米軍ヘリ基地」
で東海林次男さんに案内していただいたところの紹介です。
その後の追加調査結果も合わせてご紹介します。
時代順にいきますので、巡った順番とは異なります。
また後日再訪した際の写真もところどころ混ざります。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
今回地図をたくさん使ってますが、
ほとんど時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)
により作成したものです。
今回のフィールドワークは「東京ミッドタウン」と「国立新美術館」周辺が中心でした。
まずは現在の「東京ミッドタウン」裏側
檜町公園 google mapでこの辺
東京ミッドタウンの裏にこんな池があるとはびっくり。。。
ここの説明板に歴史が書いてあります。
元は長州藩下屋敷
説明板の地図がわかりやすかったんで、拡大。
このあたりには歩兵第一連隊が置かれていました。
公園内にはこんな碑があります。
歩兵第一連隊跡 google mapでこの辺
歩兵第一連隊の2代目連隊長が乃木希典
旧乃木邸 google mapでこの辺
この家の周りには見学用の通路が作ってあって、そこから家の中を覗けるようになっています。
この通路、いつ頃できたものなのやら?とフト思ったんで、ちょっと調べてみました。
雑誌「博物館研究」1937年(昭和12年)12月号1によれば
将軍自刃の後その遺言により大正2年1月東京市に寄贈され、爾来その手に保管せられて家屋の周囲に回廊を設け、同年4月13日一般に公開、今日に至ったもので、昭和11年大修理を行った
(p.291)
とあって、こんな写真が載ってます。
現在のほぼ同じアングルの写真と並べてみると、同じ感じ。。。わかりにくいか。
これは1936年(昭和11年)の大修理後と思われます。
修理前の1932年(昭和7年)9月14日の東京朝日新聞朝刊には
「乃木将軍殉死 廿周年記念祭」
という記事があって、別アングルの写真が出てるんですが、
これまた現在のほぼ同じアングルの写真と並べてみると。。。
回廊はほぼ今と同じように見えます。
作り直してる可能性はありますが、
回廊自体は大正時代から同じような形であったようです。
(ちなみに、この比較写真を撮るために翌週再訪。。。)
「だから何?」
と言われりゃそれまでなんですが、
何のためにこの旧乃木邸を保存し、回廊で見学できるようにしてるか、なんですよね。
しかも大正時代から、戦争を経て現在まで同じ形で。。。
さすがに現在の旧乃木邸は港区が管理してるので、露骨な表現はないんですが、
お隣の乃木神社へ行くと
乃木神社 google mapでこの辺
ここには宝物殿があって、色々な展示がされています。
その中にはこんな説明も
9月18日の葬儀は、約20万といわれる人々が見守る中で行われました。日露戦争後、戦勝気分に浮かれ、白樺派や共産主義が芽生えるなど国民精神が弛緩し、明治から大正へと時代が切り替わっていく中で、乃木大将が若い頃に軍旗を奪われた負い目を30数年間負い続けこのような最期を遂げられた事は、いわゆる忠義を働くということだけでなく、何より国民への警鐘でありました。
そして乃木神社のホームページ の『ご神徳』にはこうあります。
ご祭神である乃木将軍のご神徳は、「忠誠」という語に表されます。ご祭神の、自らに対し、そして父母、国に対して誠を貫かれたという御事績は、我々日本人が大切にしてきた精神を表しています。
初詣として参拝した国会議員が無邪気にSNSで報告するのは論外ですけどね。
ここは民間の神社なので、別にどんな説明がされててもいいんですが、
やっぱ隣の旧乃木邸とセットですよね。
今の旧乃木邸の残し方って「史実を残す」というのとはちょっと違う気がします。
ま、「明治天皇に従って殉死した偉大な人」という残し方だからこそ、
行政がやってても誰も文句言わないんだろうけど。
めんどくさい事書いてんなぁ、と我ながら思いつつ、なんだかモヤモヤが残ります。
第一連隊、第三連隊の敷地の歴史に戻りましょう。
現在の「国立新美術館」あたりには歩兵第三連隊がおかれていました。
1931年(昭和6年)頃の地図に「日」の字の形をした特徴的な建物が見えます。
これは歩兵第三連隊兵舎
関東大震災後の1928年(昭和3年)に再建された兵舎で、
今は国立新美術館別館として、ほんの一部が残されてます。
国立新美術館別館 google mapでこの辺
左側に見えてる白い建物が別館
これじゃぁ、元の建物の姿は思い浮かばないですよね。。。
この別館建物には展示室もあるんですが、見学できる曜日がかなり限られてます。
外から覗くと、こんな感じの展示があるようです。
別館建物には入れませんでしたが、
国立新美術館の中に入って、右側に行くとこんな模型があって、当時の姿がわかります。
(入館料不要)
後ほど調べたら、当時の写真を見つけました。
「国際建築」1928年9月号2の記事ですので、おそらく建物ができてすぐくらいの写真です。
「正面及び背面外観」の写真は模型と見比べると面白いかも。
戦争末期にはこの辺りも空襲を受けます。
近くの
赤坂氷川神社 google mapでこの辺
ここには1945年5月25日の空襲で焼けた銀杏の巨木があります。
推定樹齢450年
焼け跡が痛々しいですが、しっかり生きてます。
戦後
歩兵第一連隊のあった場所は防衛庁
歩兵第三連隊のあった場所は東京大学生産技術研究所(一部物性研究所)
になりました。
ちなみに現在でもこの頃の道標が残ってました。
(。。。出てる施設がほとんど存在しない(笑))
その後
防衛庁は2000年に市ヶ谷へ移転。
東京大学生産技術研究所は2001年に移転します。
そして現在
歩兵第一連隊のあった場所には東京ミッドタウン
歩兵第三連隊のあった場所には国立新美術館
ができています。
歩兵第三連隊のあった場所で忘れちゃいけないのが。。。
米軍基地「赤坂プレスセンター」 google mapでこの辺
フィールドワーク当日は隣接する都立青山公園の新規開園エリアがまだオープン前でしたが、
2月1日に開園青山公園HP「新規開園エリアご案内~南地区が広くなります~」
再訪した2月5日には中に入ることができるようになってました。(ただし時間制限付き)
この公園の地図看板を使わせてもらって、この辺りの歴史を軽く見ていきましょう。
説明用に地図を回転させます。
都立青山公園が開園したのが1970年3。
この頃の航空写真がこちら。
①の部分が先ほどの新規開園エリア辺りなんですが、この頃はまだ基地敷地内で建物もあります。
そして②の部分、この時代は公園です。
そして1983年(昭和58年)、環状三号線のトンネル工事期間中、臨時ヘリポート用地として青山公園の土地が提供されます。
東京都発行の「東京の米軍基地2022」4p.15によれば
昭和58年5月の日米合同委員会合意に基づき、8月、都は、東京防衛施設局(現北関東防衛局)、在日米軍との三者間で「在日米軍施設及び区域の共同使用に関する協定」を締結し、環状三号線の工事期間中の臨時ヘリポート整備と、工事完了後、元のヘリポートを原状回復することとした。
こうして、②近辺の公園部分がざっくりヘリポートとして切り取られています。
その後1993年(平成5年)に環状三号線工事は完了してるんですが、2009年のこの航空写真時点でも①の部分は基地の敷地のままです。
さらに時間が経過し、2007年(平成19年)に日米合同委員会で"代替地"に当たる一部土地の返還が合意されて、2011年(平成23年)に返還されます。
国土地理院のHPで見ることができる最新の航空写真がこれ。
①の部分はまだ整備されてませんが、返還はされています。
ただ、元々の約束は②の部分の原状回復のはずなんですが、そこはヘリポートのままです。
公園の中に行くと、米軍基地がバッサリと公園をえぐっているのがわかります。
。。。っていうか、先ほどの東京都発行「東京の米軍基地2022」p.15によれば
昭和38年3月、国は、国有財産関東地方審議会の答申を得て、米軍基地として提供された施設・区域を含む国有地を森林公園として決定した。
ということで、本来この米軍基地全体を含むこの辺り一帯が公園になるはずの場所なんです。
おまけ
なんだか長くなってますが、おまけ。
旧乃木邸の同アングル写真を撮るために再訪したついでに、
現在のTBSあたりまで足を伸ばしました。
そこには
近衛歩兵第三聯隊跡 google mapでこの辺
そのすぐ近くの円通寺坂には
手前の自販機の横とその先にある掲示板のちょい先に。。。
更新履歴
2023年2月8日 新規作成
2023年6月6日 文責追記
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
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博物館研究 10(12)(日本博物館協会 1937)
NDL ONLINE(国会図書館) 『博物館研究 10(12)』 (個人送信) ↩︎ -
国際建築 = The International review of architecture 4(9);9月號 宮内嘉久編集事務所 編(美術出版社 1928)
NDL ONLINE(国会図書館) 『国際建築 = The International review of architecture 4(9);9月號』 (国会図書館限定) ↩︎ -
東京都「東京の米軍基地2022」p.15 (東京都都市整備局HP「東京の米軍基地2022」 ) ↩︎