江戸の名残と軍都の痕跡ー2.26事件と山手空襲
2023年2月26日におこなわれたフィールドワーク「2.26事件と山手空襲」
で東海林次男さんに案内していただいたところの紹介です。
まさにその2月26日ゆかりの場所も巡りました。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
スタートは表参道駅から
秋葉神社 google mapでこの辺
今はすっかり綺麗になっていますが、
かつては右側に見えてるような「国威顕揚」と刻まれた石灯籠や焼けイチョウがあったそうです。
現在は残っていません。歴史が削られていく感じ。
ここから1945年5月25日の山の手空襲の痕跡を辿ります。
まずは空襲前後の表参道付近の航空写真を並べてみました。
真ん中右寄りにある大きな交差点が、表参道の交差点です。
空襲前にびっしり立ち並んでいた建物が、すっかりなくなっているのがわかります。
表参道の交差点すぐ近くにあるのが
善光寺 google mapでこの辺
いただいたお寺のパンフレットによると、
正式名称は「南命山・無量寿院・善光寺」
宗旨は「浄土宗」とのこと。
こちらには「戦災殉難者諸精霊供養塔」があります。
そして、空襲で焼けてしまった墓石が残っています。
表参道に戻って
山陽堂書店 google mapでこの辺
1891年創業の老舗書店。
5月25日の空襲でも建物は残り、この中に逃げて助かった人も多かったそうです。
1964年の東京オリンピックの時に青山通りが拡張されて2/3が削られたとのこと。
表参道には大灯籠がありますが、
その台座のところを見ると欠けている部分があります。
これも空襲の傷跡です。
灯籠の近くにみずほ銀行がありますが、戦時中ここには安田銀行があり、
このそばに多くの遺体が積み上げられていたといいます。
そして、そこには慰霊碑があります。(気づいてる人いるのかな?)
和をのぞむ google mapでこの辺
原宿駅方向へ歩くと
表参道ヒルズ。ここは同潤会アパートだった場所。
さらにすすんで、
代々木公園 google mapでこの辺
この場所は…
・代々木練兵場
・米軍に接収されてワシントンハイツ
・1964年東京五輪のオリンピック選手村
(この航空写真の頃には代々木公園の造成始まってますが。。。)
後で紹介する「オリンピック東京大会選手村の記念碑」の地図と並べると「おぉ同じだ」って思います。
・代々木公園
という歴史を辿ります。
代々木練兵場時代
日本航空発始之地 google mapでこの辺
この場所で、1910年12月19日に徳川好敏大尉が日本航空史上最初の飛行をした。とあるんですが
あれ?所沢は?
という質問が参加者から出て、宿題になりました(笑)
ここは徳川さん本人に説明していただきましょう。
徳川好敏著「日本航空事始」1によれば
日本の航空の歴史は軍事用の気球から始まります。
(ちなみにライト兄弟による人類最初の動力飛行は1903年12月)
1904年(明治37年)6月電信教導大隊に臨時気球隊編成が編成され、気球を実戦使用。
1909年(明治42年)7月「臨時軍用気球研究会官制」発布。
この研究会の最初の事業が飛行場選定で、
1910年(明治43年)に埼玉県所沢町を飛行場とすることが決定。
研究会は、飛行場や、これに伴う設備の建設に着手すると共に、実際の飛行機を飛ばすことを具現化することになった。そして飛行術の習得と飛行機購入の任務とを与えられて、日野大尉と私(管理人注:徳川大尉)とが、明治43年4月1日附で、欧州へ出張を命ぜられたのである。(p.52)
私はファルマンの飛行学校に入学した。(p.54)
卒業試験に用いる飛行機は、三井物産の手で購入されたアンリー・ファルマン式であった。私はその新しい飛行機を駆って、前述と同様の三回の場周単独飛行を無事になし遂げた。機から降り立つとすぐ写真を撮られた。これは免状に貼附するためと聞き、これで私も飛行士になれたのか、国家から与えられた任務の第一歩を果たし得たのかと考え、胸中を去来する思いは言葉にも筆にも尽くし得ないものがあった。(p.58)
(管理人注:1910年12月)19日の朝を迎えると、この日は早朝から無風、まことに絶好の飛行日和である。
(中略)
フランスでは、とにもかくにも単独飛行をやってのけて免状を買ってきたとはいうものの、日本の空を飛ぶのはこれが初めてだ。自信がないわけでもないが、今日の成否をひそかに心配している軍の首脳部や研究会の人々の注視の中で、またこの大観衆の目の前で、万一の失敗があっては大変との不安もないではなかった。しかし、機は思いのほか軽く離陸し、図のような経路で練兵場の外周を一周、無事着陸することができたのである。この時の記録は左の通りである。
時間 3分間
距離 3000メートル
高度 70メートル
滑走距離 30メートル
着陸距離 20メートル
気象 寒気甚だしかりしも無風
(p.67-68)
ということがおこなわれたのが、まさにここ。
所沢の方は日本最初の飛行場ですね。
それと、この碑の両サイドにあったこのマーク
国鉄のつばめマーク?と思った人は私だけではなかったですね。
(「国鉄 つばめマーク」で検索するといっぱい出てくる)
あとはタバコのPeaceという方も。。。
時代は進んで、戦後、ワシントンハイツ時代
オリンピック記念宿舎 google mapでこの辺
この説明では絶対に分かりませんが、
この建物、米軍のワシントンハイツの建物がそのまま使われています。
1948年に出版された
『デペンデントハウス : 連合軍家族用住宅集区 建築篇・家具篇・什器篇』2
という本がありまして、
建物のタイプ別の図面が出てるんですが、
このTYPE B-2だと思います。
1964年に開催された東京五輪ではオリンピック村になります。
オリンピック東京大会選手村の記念碑 google mapでこの辺
ちなみにワシントンハイツにいた人たちはどこへ行ったか?というと。。。
調布の「カントウ村」
当時の雑誌記事がありました。
サングラフ1964年1月号「カントウ村へお引っ越し」3
跡地にある東京外語大のページにも解説がありました。
「なぜ府中に外大が? ~東京外国語大学の歴史と 府中キャンパス移転~」
NHKの横を抜けて、
二・二六事件慰霊像 google mapでこの辺
訪れた日はまさにその日ということもあってなのか、お供物がたくさんありました。
ここには当時、衛戍(えいじゅ)刑務所がありました、
そして2.26事件の首謀者を処刑するための刑場がつくられ、銃殺された場所です。
今は渋谷地方合同庁舎、渋谷区役所、神南小学校(元は大向小学校)などになっていますが、
亡霊が出る、という噂がずっとあったらしく。。。
冥福を祈るお地蔵さんがあったりもします。
その後、1945年5月25日の空襲で、
この刑務所に監禁されていたB29の搭乗員も亡くなっているそうです。
この話は今年(2023年)東京新聞の記事にもなってました。
東京新聞2023年3月9日 歴史に埋もれた悲しい死…捕虜で収容中に焼死したB29搭乗員 東京大空襲の追悼行事で初めて読み上げへ
この先、
とある駐輪場の片隅に google mapでこの辺
これは元々違う場所にあったものをここに移してあるそうです。
もう一つ
とあるパチンコ景品交換所の片隅に google mapでこの辺
よくもまぁ、残ったもんです。
(抜きたくても、抜けなかったのかな?)
やはり、毎回新発見だらけ。
面白いですねぇ。
表参道の慰霊碑や渋谷の陸軍用地標石・・・
これがひっそりと隠れているのはもったいない。
こういうものをきっかけに興味持つ人もいると思うんだけどなぁ。
謝辞:
文中の航空写真を探すのに
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)
使わせていただいてます。
とても便利。感謝です。
更新履歴
2023年3月12日 新規作成
2023年6月6日 文責追記
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
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航空同人会 編 ほか『日本航空事始』,出版協同社,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-03-11) ↩︎
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工芸指導所 編『デペンデントハウス : 連合軍家族用住宅集区』建築篇・家具篇・什器篇,技術資料刊行会,昭和23. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-03-11) ↩︎
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『サングラフ』14(1)(146),サン出版社,1964-01. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-03-12) ↩︎