心に刻む南信州・岐阜の旅ー満蒙開拓平和記念館、乙女の碑、平岡ダム
2023年3月24日〜2023年3月26日訪問
ヒロシマ講座(竹内良男さん主催)で企画されたツアーに参加してきました。
お天気はあまり良くなかったのですが、とても濃い2泊3日の旅。
正直、「満蒙開拓」を説明したりするのはまだまだ無理ですので、
自分の備忘のためにも関連資料へのリンクなどで整理しとこうと思います。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
初日
2023年3月24日
曇り。とてもあったか。
この記事の一番上の画像でもある、
満蒙開拓平和記念館 google mapでこの辺
「満蒙開拓」の基本的なことに関しては満蒙開拓平和記念館の公式ページ
をご覧ください。
記念館のパンフレット(ここからダウンロード可能 )に
前事不忘、後事之師
ー 前事を忘れず、後事の教訓とする ー
という言葉が書いてあって、
同じ言葉をこの旅とは別な日に東京で見ることになるんですが、それは後ほど・・・
この記念館をこの日に訪れた大きな目的の一つが
王希奇「一九四六」展
ちょっと前に東京でもやっていたのですが、行けなかったのでここで初めて見ました。
中国人画家 王希奇さんが「満洲」からの引揚げを描いた縦3メートル・横20メートルの巨大な絵です。
この絵については
記念館のホームページに「絵画「一九四六」と 王希奇氏」
という記事がありました。
写真撮影OKとのことでしたので、向かって左端から順番に。。。
ずっと続く人の列の中には色々な人が描かれていて、
表情もすごく細かく表現されています。
その一人一人が重い経験を背負っていて、日本に着いてからも大変な思いをされます。
大きさと細かさに圧倒されます。
記念館から少し坂を上がったところに
長岳寺 google mapでこの辺
ここは中国残留孤児の父と言われた山本慈昭さんが住職をされていたお寺
…と偉そうに書いてますが、私は山本慈昭さんのことは全く知りませんでした。
この映画のことも知りませんでした。
このお寺にはいろんな碑があります。
日中友好不再戦の碑
日本と中国は平和と友好で永劫に手を握りましょう 1966年初夏
裏面
旧西部八ヶ村から終戦前に王道楽土建設の名のもとに誤った軍国主義政治のためかりたてられて中国に渡ったこの地方の開拓民は凡そ九百名に及び内六百名の犠牲者を出した
この不幸な体験から「戦争はまっぴらだ二度とあんな目にあいたくない 中国と仲よくしよう」と私達は心から誓って関係者一万余名の浄財カンパによりこの碑を建立した
(ここまでしか読み取れず。。。)
そして山本慈昭さんの碑もあります。
山本慈昭さんがお書きになった文章のうち、国会図書館で個人送信になってるもの(利用登録していればインターネット経由で家で読める)には以下のようなものがありました。
『再会 : 中国残留孤児の歳月』(1981年)1
『信州の昭和史 : 長野県近代百年の記録 下巻』p.122「証言:中国残留孤児と長野県」(1982年)2
2日目
2023年3月25日
雨
佐久良太神社 google mapでこの辺
ここには色々な碑が建ち並んでいます。
開拓団に関係する碑について、時代の古いものから碑文と一緒に並べてみます。
第二次集合黒川開拓団は 満洲国吉林省扶余県陶頼昭に地を定め 昭和十六年三月末に 団長藤井武氏ほか 三名の設営班入植 同年四月先遣隊入植 爾来昭和二十年三月までに遂年本隊入植 総戸数百二十九戸人口六百余人入植(黒川八十五戸 佐見三十八戸 その他六戸)
時の黒川村村長藤井紳一翁は郷土の前途を憂い 且つ国策の大綱に従い分村計画を発するや賛否両論あるも よく之を修め実現遂行に心血を注いだ 入植者全員またよく先覚者の矜持と使命の重大性を痛感し 所期の目的達成に粉骨砕身の決意に燃え 全力を挙げて敢闘成果著しく理想の達成に今一歩に迫る秋 昭和二十年八月終戦の悲運に遭い 万里異邦に在り 絶望混乱の渦中に忍従するも暴徒の凶刃に傷つき悪疫に殪れる者二百余柱 まことに痛哭の極みなり
昨日の同胞既に無く 今日北満の辺地に一滴の朝露と消え壮図半ばにして護国の鬼と化す 諸氏の偉業を偲び茲に一碑を建て一文を叙し追悼と顕彰の意を表す昭和三十五年十一月建立
平成二十四年四月設置替え
黒川分村遺族会
陶頼昭墓参を記念して
黒川分村遺族会は 白川町農業友好訪中団を編成 団員二十六名 昭和五十六年六月二十九日 吉林省陶頼昭を訪問 開拓苦難の跡を偲び この地に眠る同胞諸霊に鎮魂の誠を捧げ 辛苦引揚げの日から三十五年にして遺族悲願の墓参を果たし得たり
日中友好と 慰霊追悼の心が永劫ならんことを切念して この碑を建立する昭和五十七年三月
白川町黒川分村遺族会
白川町農業友好訪中団
戦争のもたらす悲惨と 平和の美しさ 尊さは 永劫に忘れてはならない
満洲(現中華人民共和国東北地方)への開拓移民は大正末期から昭和にかけての 不景気と農村疲弊を救うべく 時の政府が樹立した国策の大事業であった 満洲建国を機に民族協和と王道楽土をめざして 大量の開拓移民が実施された 黒川村に於いても 国策に従い 国家の繁栄と郷土の更生を願って 分村移民の計画が進められ日夜協議を重ねた結果 黒川村八十五戸 佐見村三十八戸 その他六戸 総数百二十九戸 総勢六百余人が 昭和十六年から相次いで渡満した 幾多の辛苦と困難を乗り越え開拓の成果今一歩のとき終戦の悲運に遭い 一朝にしてすべてを失い 言語に絶する苦しみと 絶望混乱の内に二百余名の同胞の亡骸を大陸の土に埋め 生ける者のみ無一物の 引揚げを余儀なくされた
痛手に耐えてあれから四十五年 今 我等の生活安定するとは言え 当時を思うてなお心は痛む 陶頼昭 それは我等の第二の古里であり万感尽きせぬ思い出の地でもある
かの地に眠る同胞の霊 安かれと祈り 悠久の平和と 日中両国友好の永遠を念願して 第二次墓参を機に この碑を刻むものである
(裏面)
時は流れ 世は移ろうても われわれの脳裏から離れ得ぬものは数多くの同胞の眠る第二の古里 陶頼昭のことである。 諸霊の鎮魂の誠を捧げんと さきに 白川町農業友好訪中団の墓参が実現してから十年 今また ここに第二次友好訪中団による 慰霊の念願が成就し 追悼の誠を捧げ得たことを記念し 先人を偲び日中友好の深まりを念じ この碑を建立する。
平成三年十一月
白川町黒川分村遺族会
第二次白川町友好訪中団
そして、乙女の碑
説明版を読めるように、写真を高解像度でPDF化したものはこちらからダウンロード可能(3MB)
その後、近くの公民館 兼 農家レストラン「まんま」で
旧黒川村満蒙開拓団遺族会会長の藤井宏之さんと
旧黒川村満蒙開拓団の安江菊美さんのお話をうかがいました。
藤井さんは戦後生まれの開拓団員2世の方
阿智村の満蒙開拓平和記念館ができる前、その建設予定地に立っていた看板に
「今伝えなければいけない満蒙開拓の歴史」
と書いてあって、自分の使命はこれだ、ということを感じたそうです。
そして、安江さんはご自分の体験を話してくださいました。
説明版にある「接待」については、
風呂焚きをしたとき、自分たちが風呂に入れる、と喜んだら
母親に「私たちが生きるために娘さんたちがソ連兵のところへ行くんだ」と言われたが、
当時10歳の安江さんにはよくわからなかった。
でも、妹を医務室へ連れて行った時、
娘さんたちが「接待」から帰ってきて「洗浄」しているのを見て、
母親が言ったことの意味がわかった、
とおっしゃってました。
帰国後も大変で、
満洲へ行くときに、家も畑も売って行ったので、帰ってきたとき住むところもなく、
母親は担ぎ屋として、山で炭を買い出して名古屋駅の裏で品物と代えてきて、
その品物を安江さんと妹が村内で売り歩くなどして必死に生活したそうです。
安江さんと妹は一応学校に籍はあったものの、学校には行かず母親と3人で働いて働いて・・・
やっと小さな家を建てることができた昭和23年5月に父親がシベリアから帰ってきて、
そこから少し楽になって中学も1年くらいは通うことができた、とのこと。
他にも
引揚の船で風呂に入ることができたことが強く印象に残っている。
黒川から出る時に浪曲好きの父親が蓄音機を持って行ったのを覚えている。
洗濯竿を持って行った人もいるらしい。
荷物は行李に入れて送って、自分たちよりも先に荷物がついていた。
黒川では残留孤児3人。
中国で結婚後に帰国したが男性1人と女性2人のうち、男性は自ら命を絶った。
といったお話をしてくださいました。
東京新聞にも記事がありました。
東京新聞2019年8月14日
「<つなぐ 戦後74年>性接待 満州で1度死んだ 女性、遺族ら 歴史伝える決意」
最後に藤井さんから
平井美帆著「ソ連兵へ差し出された娘たち」についてのお話もうかがいました。
私は積読状態で読んでいなかったのですが、
この本については遺族会から声明が出ていて、満蒙開拓平和記念館からもコメントが出てます。
満蒙開拓平和記念館HP
「旧黒川開拓団をとりあげた書籍に対する遺族会の声明文と記念館のコメント」
こうやって自分のホームページに書くことや、
私が別にやっている「昔今語り」
も他人事じゃない訳で、
これは宿題ですね。
次に向かったのは
東白川村平和記念館 google mapでこの辺
特別に開けてもらってますが、通常の開館日は3月から11月の隔週日曜とのことなのでご注意。
詳しくは東白川村役場HP「平和記念館」
西南の役から第二次世界大戦までの村の戦争の記録とのことで、
村中から集めた遺品などが展示され、戦死された方の遺影がずらっと並んでいます。
色々なものが置いてあります。
1993年に山の中で発見されたという焼夷弾も。。。
戦時中に炭焼窯の焚き火が狙われたんじゃないか?って書いてありました。
M69のようにも見えますが、どうなんでしょ。
次に行ったのは
旧読書村 殉国慰霊塔と拓魂碑 google mapでこの辺
google map上の表示はないし、ストリートビューでも近づけませんが、
航空写真で見ると写っています。
慰霊乃詩
村史いらい
日清日露満洲
支那各戦役から
大東亜戦まで
軍人軍属として應召し
戦死者は一一八柱を数え
戦争ほったんの理由はあろうと
このためにうしなはれた
かけがえのない人命・・・・・
このためになきかなしみ ー
肉親の人しれぬくのう
ー やるせなくいやすゝべなく
死んだ者はかえらない・・・・・
人類興亡の歴史は
たえざるも
戦争の傷痕はうせず
こゝに村をあげ
平和けんぽうを世界に
宣言した日本國民は
この非業悲憤にたおれた
いくたみたまの安からむを祈り
末永くつたえ
しのぶよすがと
せめてもの生存者のたむけとする昭和三十四年八月十五日 読書村長 鈴木常雄
拓魂碑
読書村は当時国策に応え新しい村造りを村是として分村計画を樹て大陸進出に踏み切った是が為先遣隊員二十名は昭和十三年七月満洲三江省樺川県公心集に開拓の第一歩を印した爾来二星霜受入態勢は整い終戦時には戸数二百戸人口八百十四名報国農場隊員四十名に達したが其の間未開地の開拓事業は筆舌に尽くせぬ苦難を記録に留めつつも是を乗り超えた然るに逆転した戦局は昭和二十年八月終戦を告げ此の日を境に営々辛苦文字通り血と汗によって築きあげた分村読書村は悲運の深渕に落ち総てのものを放棄した殊に方正県に於ける飢餓と病魔は悲惨を極め生地獄と化し著書「北満の哀歌」に集録された
茲に慰霊碑を建立し大陸殉難の霊を慰め雄図を後世に伝えることとした昭和参拾四年八月拾五日
読書村長 鈴木常雄撰文
長野県知事 西澤雄一郎謹書
この日の晩は宿で
中国残留邦人等の体験と労苦を伝える戦後世代の語り部である巻口さんに
「中国残留婦人、祖母シズの生涯」
としてお話していただきました。
巻口さんの祖母シズさんは1913年生まれ。
1942年の夏に5人の子供を連れて満洲へ渡り三男が病死。
1945年8月3日には夫が召集
日本敗戦後の避難中に寒さと飢えと伝染病の中で、満洲で生まれた四男(2才)と五男(1才)も亡くなります。
その後中国人男姓と結婚し子供も生まれます。
日本人の帰国は
1946年5月から1948年8月までに約105万人
1953年3月から1958年7月までに約3万3千人
と、おこなわれますが、
シズさんは1953年に長男(19歳)のみ日本へ帰します。
20年以上経った1975年にシズさんはようやく一時帰国を果たし、
長男が身元保証人になってそのまま日本へ残ります。
1982年に日本生まれの次男、長女、次女を日本に呼び戻し
1992年には中国人の夫も日本へやってきます。
夫は2001年に84歳で亡くなり、
シズさんは2006年に93歳で亡くなります。
シズさんの残した手記には
「自分の過去を振り返ると悔しくてなりません。けれど、自分の運命と自覚しております。」
と書かれていたそうです。
語り部の巻口さんはシズさんの次男の娘で、
1982年に日本に来たとき16歳。
日本語が全くわからないので中学に編入して、その後日本で生活されています。
ご本人の体験も含めてお話しされて、貴重なお話を聞くことができました。
ちなみにこの語り部事業については中国帰国者支援・交流センター へ
3日目
2023年3月26日
昨日より強い雨・・・
平岡ダム google mapでこの辺
平岡ダムの歴史を残す会の原英章さんにご案内いただきました。
中国人慰霊碑 google mapでこの辺
ここもGoogle mapでは表示されませんが、ダムの管理事務所の真ん前です。
この碑の裏側の碑文は山本慈昭さんの字だそうです。
この碑は、伊那谷の人々が、日中友好、日中国交回復、日中再不戦の平和運動の一環として、地元の日中友好協会同士等主唱して、太平洋戦争の末期に、当平岡ダム工事に、中国河北省から日本に強制連行され殉難された、六十二名の烈士のため、中国帰国並びに一般民主団体、凡そ二万余名の協力をえて、中国紅十字会ゝ長李徳全先生に碑文の揮毫を願い、このゆかりの地に慰霊の碑を建立したのである。
願くは、異郷に眠る隣邦の霊魂、とこしえに朽ちざらんことをお祈りすると共に、私達は、日中両国が再び悲惨な戦を起こすことなく、永遠に両国民の友好を誓うものである。一九六四年四月
長野県中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会
この碑を建立したときの経緯を山本慈昭さんが雑誌に書かれていました。
『平岡における中国人殉難』(『伊那』21(2)(537)p.16)3
天龍中学校 google mapでこの辺
ここは元捕虜収容所。
鎮魂碑があるんですが。。。
裏側の英語と日本語で内容が違ってます。
英語は
In April 1943, we did get а supply of Red Cross medicines, but it was insufficient for our needs and due to the lack of medicines the lives of the Prisoners were endangered and many Prisoners died due to lack of medicines.
The following Prisoners died as result of the behaviour of the Japanese camp staff in withholding food and medicines. (From the official record of the Yokohama Class B and C War Crimes TriaL)
翻訳ツールの力を借りて訳してみると
1943年4月、我々は赤十字の医薬品を供給されたが、それは我々の必要量には不十分で、医薬品の不足のために捕虜の生命は危険にさらされ、多くの捕虜が医薬品の不足のために死亡した。
以下の捕虜は、日本人収容所職員が食料と医薬品を差し控えた結果、死亡した。(横浜B・C級戦犯裁判の公式記録より)
下の日本語は
国策によって1940年から建設に着手し、1952年に完成をみた現在の中部電力平岡ダム。あの太平洋戦争の最中に、捕虜という身分でこのダムの基礎工事に強制的に就労させられ、主に疾病などで大勢の尊い命が失われております。
この鎮魂碑は、2000年を節目とした「天龍村史」の発行にあたって、悲しくも満島俘虜収容所等で他界された56名の御霊の追悼と鎮魂により、今日に感謝しながら恒久の世界平和を心からお誓いするために、住民有志と関係各位の浄財で建立したものです。2000年 秋吉日
長野県下伊那郡天龍村
満島俘虜収容所犠牲者慰霊実行委員会
中部電力 平岡発電所 google mapでこの辺
桜並木の先に
慰霊碑に向かいますので、このまま進むと、
発電所の手前に慰霊碑があります。
碑の裏には「殉難者氏名」として、日本人の名前が刻まれていますが、
中国人、朝鮮人については『中国人15名』『韓国人13名』と人数だけ刻まれています。
「天龍村史 下巻」4には『平岡ダム建設史』という独立した章が設けられ
54ページの記述があります。
項目だけ紹介すると
第1節 国策としてのダム建設
第2節 ダム建設に従事した人びと
第3節 労働の実態
第4節 捕虜収容所警備員
第5節 敗戦ー捕虜たちの帰国
第6節 横浜裁判
第7節 遺族の五十五年
第8節 戦後の交流
と、かなり充実した内容です。
中でも横浜裁判については多くのページが割かれていて、
地元住民で傷痍軍人だった平松貞次さんが収容所で警備員として雇われ、戦犯として死刑になった話などが紹介されていました。
以前のフィールドワークで東京駅前の「愛の像」を巡り
ましたが、
このとき紹介したB,C級戦犯として刑死・獄死した人々の遺書をまとめた本「世紀の遺書」5に、
この平松貞次さんの遺書が掲載されていることも紹介され、全文が引用してありました。(『わが妻へ残す言葉』「世紀の遺書」p.655)
戦争さえなければ、こんなことにはならなかったはずです。
今回の旅はここまで
泊まりがけのフィールドワークは初めてでしたが、本当に中身の濃いものでした。
天気が悪くて巡ることができなかった場所もありますし、
もう一度訪れてみたいところもあります。
この記事ではあえて碑文を書き出してきましたが、
碑文を見ると、慰霊、顕彰。。。そして満蒙開拓の位置付けも様々です。
単に「慰霊碑」として見るだけではダメなんだということを教わりました。
冒頭、満蒙開拓平和記念館パンフに書かれた言葉を紹介しました。
別な日に訪れた東京都調布市にある
延浄寺 google mapでこの辺
ここには「不忘の碑(わすれずのひ)」があります。
國に従って
国に棄てられた人びとを
忘れず
ふたたび
同じ道を歩まぬための
道しるべに中国帰国者の会 鈴木則子
一九二八年〜二〇一一年
この「國」と「国」という漢字の違いは
「大日本帝國に従って、日本国に棄てられた人びと」ですよね。
建立者の赤塚さんの言葉も刻んであります。
一九三〇 ー 四〇年代、「満蒙開拓」の国策によって、「東洋平和のため、王道楽土を築くため」を名目に、「お国のために、天皇陛下のために」と、「満州」(中国東北地方)に送り込まれた人たちがいた。
しかし、一九四五年日本敗戦時の混乱の中、置き去りにされ、多数の死者を出す過酷な逃避行を強いられた。
中国人に救われて死を免れた人たちも、帰国の道を閉ざされ、国に見棄てられたまま、長い歳月が流れた。
碑文の鈴木則子(一九二八年生)もその一人。
鈴木がようやく帰国できたのは、戦後すでに三三年を経た一九七八年。四年後、中国帰国者の会を起こす。「中国残留夫人・残留孤児」らの帰国の援助、帰国後の生活相談・日本語教室・行政への働きかけ等々の活動を展開。国家賠償を求めて提訴も。
鈴木則子さんは言います。
「私たちのような、”中国残留夫人・残留孤児”などと呼ばれる存在は、二度と、生み出されてはなりません。もう決して、このようなことがくり返されないために、私たちの体験・事実を伝えたい」と。
そして「知ってほしいのは、悲惨な体験をしたことだけでなく、権力に対して疑問や批判をもたない危なさ・怖さです」と訴えます。
「騙されないように、流されないように」との鈴木さんの呼びかけは、時代を超える大事なメッセージです。
この歴史的体験を忘れず、ふたたび同じ道を歩まぬための、私たちみんなの<道しるべ>にすべく、此処に、不忘(わすれず)の碑は立っています。(建立者・赤塚頌子)
鈴木則子さんについては、以下の東京新聞社説でも紹介されています。
2022年8月28日<社説>週のはじめに考える 残留婦人なぜ生まれた
鈴木則子さんはずっと「自分たちは被害者でもあり加害者でもある」とも言い続けておられたそうです。
開拓団が行った場所には元々住んでいた人たちがいたんですよね。。。
そしてこの碑の裏側には
前事之不忘、後事之師也
前の経験を忘れず
後の教えとする
と満蒙開拓平和記念館パンフと同じ言葉が刻んでありました。
・・・宿題多いなぁ。
更新履歴
2023年4月9日 新規作成
2023年6月6日 文責追記
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記
-
山本慈昭, 原安治 著『再会 : 中国残留孤児の歳月』,日本放送出版協会,1981.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12113879 ↩︎
-
『信州の昭和史 : 長野県近代百年の記録』下巻,毎日新聞社,1982. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570776 ↩︎
-
『伊那』21(2)(537),伊那史学会,1973-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4431374 ↩︎
-
『天龍村史 下巻』,長野県下伊那郡天龍村,2000.(未デジタル化) https://id.ndl.go.jp/bib/000008002108 ↩︎
-
『世紀の遺書』,巣鴨遺書編纂会刊行事務所,1953. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2994839 ↩︎