虐殺100年の現在地ー八広・両国・亀戸
2023年4月8日訪問
「ヒロシマ講座」虐殺100年の現在地〜歩いて考える関東大震災 フィールドワークの1回目
一般社団法人ほうせんか理事の西崎雅夫さんに案内していただきました。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
まず
ほうせんかの家 google mapでこの辺
ここで、西崎さんのお話をうかがいました。
”ほうせんか”のホームページ
にも色々と資料が出てます。
旧四ツ木橋 google mapでこの辺
1969年にすぐ下流側へ木根川橋ができて取り壊されますが、1
それ以前の航空写真を見るとわかります(下の赤マル部分)
写真では何本も橋があるように見えますが、
関東大震災当時は四ツ木橋以外には鉄道と水道の橋のみです。
関東大震災当日の夜、この辺りにもたくさんの人たちが避難してきていたそうです。
そして朝鮮人虐殺の証言が数多く残っている場所でもあります。
自警団による虐殺、
そして軍隊による虐殺(朝鮮人を並べて機関銃で撃ち殺す)も起きた場所です。
1982年、その遺体を埋めたという証言がある場所( google mapでこの辺
)で試掘をおこなったそうなのですが、遺骨は見つかりませんでした。
その後の調査で、亀戸事件(震災直後に習志野騎兵連隊が亀戸警察署内で労働運動家10人と自警団員等5人を虐殺した事件)に関連する新聞記事から状況がわかってきたそうです。
詳細は
”ほうせんか”ホームページ「当時の新聞報道にみる、旧四ツ木橋朝鮮人犠牲者の遺骨のゆくえ」
を見ていただくとして、要するに警察が遺体を発掘してどこかへ運び去ってしまったということのようです。
酷いことにその遺骨の行方も人数も名前もいまだにわからないままです。
次に向かったのは横網町にある
東京都復興記念館 google mapでこの辺
ここで見るべきは。。。
流言・虐殺に関する唯一の展示パネル
竹久夢二「自警団遊び」
高増径草の絵巻(自警団員の様子)
「自警団」というタイトルの絵(提灯で顔を照らされている人物)
この復興記念館がある横網町公園一帯は関東大震災時には陸軍被服廠跡の広大な空き地で、震災後にたくさんの人が避難してきた場所です。ところがここでは火災旋風が巻き起こり3万8千人の犠牲者が出ています。
東京各地で亡くなった人の遺骨を集めて「震災記念堂」として1930年に作られたのが
東京都慰霊堂 google mapでこの辺
東京大空襲で亡くなった方の遺骨も合わせて「東京都慰霊堂」となりました。
そして
朝鮮人犠牲者追悼碑 google mapでこの辺
この歴史
永遠に忘れず
在日朝鮮人と固く
手を握り
日朝親善
アジア平和を打ち
たてん藤森成吉
一九二三年九月発生した関東大震災の混乱の中で、あやまった策動と流言蜚語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。
私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、信条の相違を超えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。一九七三年九月
関東大震災朝鮮人犠牲者 追悼行事実行委員会
この向こうにあるのが
石原町・緑町震災戦災追悼碑 google mapでこの辺
9月1日に虐殺を否定するグループがここで集会を開いています。
歴代の東京都知事は9月1の追悼式に関東大震災朝鮮人虐殺に関する追悼文を送り続けていましたが、小池知事は知事就任翌年の2017年9月からそれをやめてしまいました。
2017年3月2日東京都議会の一般質問で自民党の古賀俊昭氏(故人)が「追悼の辞の発信を再考すべき」と指摘し、小池知事が「今後につきましては、私自身がよく目を通した上で、適切に判断をいたします。」と答えて以降は追悼文を出していません。
この時の議事録はここで見ることができます。
東京都議会 平成29年第1回定例会 古賀 俊昭(自民党)「朝鮮人犠牲者追悼碑の改善を」
この人が小池知事にお薦めしている本(ここに書名を書くのもイヤ・・・)があるのですが、
同じ土俵にのせちゃいけないレベルのものであって、まさに論外。
その詳細についてはこちらの本をどうぞ
加藤直樹 著『TRICK-トリック「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』
それにしても、なんなんだろう、この虚しさ。。。
虐殺があったことは紛れもない事実で、公的資料をほとんど残さなかっただけなのに。
よく引用されますが、中央防災会議の報告書
災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災【第2編】
第4章 第2節 殺傷事件の発生 から
殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない。また、殺傷事件を中心とする混乱が救護活動を妨げた、あるいは救護にあてることができたはずの資源を空費させた影響も大きかった。自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある。
ここから、国技館の方へ向かって
御蔵(おくら)橋跡 google mapでこの辺
橋の跡と言われても、今はちょっと道路が盛り上がってるかなぁ・・くらいですが、
1930年頃の地図を見ると橋ありますね(赤マル部分)
ここでは朝鮮人を生きたまま火あぶりにしているのを目撃した証言があります。
そしてサンデー毎日の1975年9月7日号2に「52年ぶりに日の目をみた大毎写真記者の関東大震災の恐怖」という記事があって、この御蔵橋で撮影された、虐殺された朝鮮人と思われる写真が掲載されています。
亀戸へ移動して
旧亀戸警察 google mapでこの辺
・・・と言っても、今はゲームセンターですが。
1930年頃の地図を見ると警察署ありますね(赤マル部分の×印)
ここでも虐殺の目撃証言があります。
また亀戸事件もここで起きます。
赤門浄心寺 google mapでこの辺
このお寺には亀戸事件犠牲者之碑があります。
一九二三年(大正十二年)九月一日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗じて、天皇制警察國家権力は特高警察の手によって、被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者九名を逮捕、亀戸警察署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。
労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。一九七〇年九月四日
亀戸虐殺事件建碑實行委員會
犠牲者之碑誌
この犠牲者之碑を建立して二十三年の歳月を経た。この間研究の努力によって、
中筋宇八 24
も亀戸事件の犠牲者であることが立証された。当実行委員会は事件七十周年記念事業のひとつとして、このことを確認し、碑にとどめる。なお、碑の改修にあたり、碑文等一部を書き改めたことを付記する。一九九三年九月五日
亀戸事件追悼会実行委員会
更新履歴
2023年5月7日 新規作成
2023年6月6日 文責追記
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記
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『サンデー毎日』54(37)(2978),毎日新聞出版,1975-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3369614 (国会図書館内限定) ↩︎