広島 平和大通りフィールドワーク
2022年8月5日訪問
1945年8月6日の朝はたくさんの子どもたちが市内中心部に動員され、外で作業していました。
『広島県戦災史1』の「広島市戦災地図」に被爆当日の建物疎開作業地区(石丸19892)を追記したのが下の図です。地名は『広島原爆戦災誌3』の「広島市内学校の建物疎開作業出動状況」に出てくる場所です。
『広島市被爆70年史4』(p.192)から少し引用すると
市と広島県動員学徒犠牲者の会の59年の調査によると、学徒の疎開作業従事者は9,111人で死亡は3分の2近い5,618人、事業所(場)内作業従事者は1万4,143人で死亡は654人とされる。(中略)
平和記念資料館は、後に編まれた各学校史や報道を洗い直して2004(平成16)年、動員学徒の原爆犠牲者数をまとめた。市外の学校を含む50校で死亡は7,196人を数えた。「約7,200人のうち、82%が建物疎開作業に従事」と推定している。
建物疎開というのは、空襲に備えて、重要な建物の周りに空き地を作ったり、火災の延焼防止のために建物を間引いたりするために建物を壊していくことで、子供たちはその瓦礫の片付けなどをしていたようです。
もちろん大人も動員されていたわけで、
もう一度『広島市被爆70年史』(p.192)から引用すると
広島市は1958年に刊行した『新修広島市史』第2巻で、市内地域義勇隊は約3万人が出動し、死亡は約2万2500人、職域義勇隊は約1万人で死亡約8,630人、郡部の地域義勇隊は約1万人で死亡約7,560人と推計した。
私は1980年代後半に中学生でしたが、
通った中学校はマンモス校でしたから、1学年11クラスありました。
各クラスに何人いたか覚えてませんが、40人として1学年440人
その20倍以上の子供たちが、あの暑い夏の朝、広島市内の外で作業していた。
って考えるだけで、すごい光景だと思います。
そして、そこに「原爆が投下され」ました。・・・という言い方をしちゃいますが、
フィールドワークを案内してくださった竹内さん曰く「原爆で攻撃され」たんですよね。
今回のフィールドワークは広島YWCA主催で参加者は30人くらいでした。
毎年、夕張の中学生を受け入れているそうで、今年も3年生が2人と引率の先生が1人おられました。
天気は微妙・・・雨が降ったり止んだり。そして最後は土砂降りになります。
(雨降ったり、写真にいろんな方の顔が写ったりしてたので、一部の写真は別な日に撮影したものです)
広島二中慰霊碑 google mapでこの辺
県立広島第二中学校の1年生321人は建物疎開作業のためこの河岸に集合していた時に被爆し、全滅しました。
この広島二中の子どもたちの遺族の手記などから、この子たちがどこでどうやって死んでいったのかを追ったテレビ番組があります。
地元の広島テレビが作った「いしぶみ」という番組で1969年に放送されました。
「いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録」という本
がポプラ社から出ています。
それと、1年2組の豊嶋長生くんがこの日着ていた制服が東京の資料館に保存されています。
八王子・平和原爆資料館
にも是非行ってみてください。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑 google mapでこの辺
毎年8月5日の10時から慰霊祭が開かれています。
そこに少しだけ参列
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑 google mapでこの辺
正田篠枝さんの歌「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」が刻まれています。
1968年11月23日
被爆歌人正田篠枝さんの「30万名号」記念碑が出身地の広島県安芸郡江田島町に建立。原爆犠牲者30万人の霊を慰め、世界平和を祈るため「南無阿弥陀仏」の名号を書き続けた。原本は原爆資料館に
(中国新聞HP「ヒロシマの記録1968 11月」 より)
という碑が江田島にあるそうです。
嵐の中の母子像 google mapでこの辺
作者は本郷新さんという「わだつみの像」(立命館国際平和ミュージアム)などの作品がある彫刻家。
「わだつみの像」についてはこんな資料(「立命館の基礎知識「不戦のつどい」「わだつみ像」そして「教学理念」」
)を見つけました。
調べたら、私がたまに街宣をする池袋駅東口の「母子像」も本郷さんの作品でした。
google mapでこの辺
市立高女原爆慰霊碑 google mapでこの辺
市内の学校では最も多くの犠牲者が出ているそうです。
碑の「E=mc2」は連合軍占領下で「原爆」という文字が使えなかった当時の事情を表しています。
犠牲者が刻まれているところ、一部の名前の色が変わっています。
これはこれまでに遺族の方がその名前をさすってきたため。。。
現在の舟入高校で、ここは演劇部による原爆劇が有名。
演劇部部員さんへのインタビュー記事「演劇を通して私たちが伝えたいこと(広島市立舟入高校演劇部)」
がありました。
「平和のことよろしく」碑 google mapでこの辺
天満神社内にひっそりとある碑
「平和のこと よろしく 坂本文子」と刻まれています。
ここは坂本文子さんの家があった場所です。
坂本文子さんは息子さんと娘さんが原爆の犠牲になっていて、被爆体験を語る活動を続けていた方。
被爆動員学徒慰霊慈母観音像 google mapでこの辺
第一県女原爆犠牲者追憶の碑 google mapでこの辺
8月6日の午前9時30分から追悼式がおこなわれています。
この碑の場所が正門のあったところで、門柱は当時のものです。
県立広島一中追憶之碑 google mapでこの辺
国泰寺高校の中にあります。
近くの門柱は当時のものです。
最後に行ったのは
広島女高師・山中高女・第二県女慰霊碑 google mapでこの辺
広島女子高等師範学校
広島女子高等師範学校附属山中高等女学校
広島県立広島第二高等女学校
ここの碑には「殉国」と刻まれています。
でも、子どもを戦争に駆り出したのは大人であって、そういう教育をしたのも大人。
亡くなったら「国のために殉じた」って、私はひどく勝手な言い方のように感じます。
2013年からこのフィールドワークを案内していた関千枝子さんは第二県女の2年生だったときに被爆しています。
1987年に収録された関さんの証言ビデオが広島平和記念資料館のデータベースにありました。
被爆者証言ビデオ 関千枝子(セキチエコ)
そして、「広島第二県女二年西組 ─原爆で死んだ級友たち」という本 が筑摩書房から出ています。
勤労動員にかり出された級友たちは全滅した。当日、下痢のため欠席して死をまぬがれた著者が、40年の後、一人一人の遺族や関係者を訪ねあるき、クラス全員の姿を確かめていった貴重な記録。
土砂降りの雨の中、
案内役の竹内さんが第二県女二年西組の犠牲者の名前を一人ずつ読み上げて、黙祷。
更新履歴
2022年8月15日 新規作成
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記