「平和の灯」はどこから来たのか?
「平和の灯」として平和を祈る「火」はいろんな所にありますが、この火はどこから来たのか?
東京都内の「平和の灯」巡り
をすると、主に3カ所から来ていることがわかります。
ただ、それぞれの説明板では、それ以上のことはわかりません。
なので、ここに調べた結果をまとめていきます。
福岡県星野村「平和の火」の話がメインです。
「平和の灯」
広島市平和記念公園「平和の灯」
広島市平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑と原爆ドームの間にあります。
点灯されたのは1964年8月1日です。
当時の新聞記事
朝日新聞1964年8月2日朝刊『広島に「平和の灯」ともる』によれば
伊勢神宮、東・西本願寺、法隆寺、靖国神社、日本基督教協議会など34の社寺、教会から運ばれた聖火と、全国各都道府県の工場から送られた溶鉱炉の火などの”産業の火”が集められた。
とあります。
広島市の平和記念公園・周辺ガイド によると、
この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。
長崎爆心地公園「誓いの火」
長崎市ホームページでの紹介
によると、
1983年8月にギリシャのオリンポスで燃えている聖火を採火し、
1987年8月1日に設置されたそうです。
この火は、「世界中から全ての核兵器が廃絶されるまで」灯し続けられます。
平和の象徴としてこの火が灯されている限り、日本と世界のどこにも決して核戦争を起こさせないーすなわち長 崎が世界で最後の被爆地であり続けるという誓いが、この火にはこめられているのです。
東京新聞2021年8月6日社説原爆忌に考える 被爆地にともる「聖火」 でも紹介されていました。
福岡県星野村「平和の火」
福岡県八女市ホームページでの紹介 によると
昭和20年(1945年)広島・長崎の原爆によって亡くなられた方々の冥福を祈り、世界平和への願いを新たにしていくために建てられました。
塔の中に燃える“平和の火"は、焦土と化した広島から星野村の山本達雄さんが持ち帰り、やがて村が引き継いで、今日まで絶えることなく燃え続けています。
世界の恒久平和を願う星野村の人々の心のシンボルです。
ホームページはあっさりした説明なのですが、
なぜ、広島の原爆の火が福岡の星野村にあるのか?は
この本を読むとわかります。
『錠光如来―今なおピカの火を守る男』千田夏光(1990年)汐文社
・・・ただ、先程(2021/8/14)Amazonを見ると、定価1,300円が古本で35,000円という意味のわからない金額になってたので、図書館で探してください。
あるいは、朝日新聞福岡版で2018年8月26日から『聞き書き 星野村「原爆の火」』という7回連載があります。朝日新聞デジタルの有料会員ならばサイト内検索で『聞き書き星野村「原爆の火」』というキーワードで検索すると全文読めます。または、図書館などで朝日新聞データベース「聞蔵IIビジュアル」を使って検索しても読めます。
以下、少しだけここにも紹介しますが、基本的には上の2つを参考にしています。
これは山本達雄さんという人の物語でもあります。
1915年12月16日
福岡県星野村に生まれる。
1936年12月
徴兵検査 乙種合格
1937年10月10日
召集 下関重砲連隊
1939年12月1日
召集解除 この時、階級は兵長
1941年8月22日
召集 甘木高射砲連隊 台湾高雄へ配置
1943年2月
雷州半島(中国)へ移駐
1943年11月
台湾高雄へ移駐
**1943年11月11日
広島の宇品で召集解除 この時、階級は伍長
1944年12月
召集 山口県櫛ヶ浜の暁1671部隊
1945年1月
暁1671部隊隷下の暁2940部隊へ移る。
駐屯地は広島県大乗(おおのり)村(今の竹原市)
<この頃の山本達雄さんの日課>
毎朝6時半頃大乗駅出発し、呉線・宇品線の列車を乗り継ぎ、陸軍船舶司令部に出頭。
そこで必要な連絡事項と命令を受領してその日のうちに大乗村に帰る。
任務の合間に叔父の山本弥助さんが経営する『金正堂書店』へよく顔を出していた。
この『金正堂書店』は広島市革屋町25番地にありました。
その『金正堂書店』が1940年6月に発行した『番地入大廣島市街地圖』1でその位置を確認すると
物産陳列館(後の産業奨励館、現在の原爆ドーム)のすぐ近くです。
1945年2月6日
長男 郁雄 誕生
1945年8月5日
『金正堂書店』で弥助叔父から
「珍しい蜜柑酒が手に入ったので明日ご馳走する」と話があり、
明日の仕事後に駆けつけることを約束。
1945年8月6日
たまたまいつもよりも遅い列車へ乗り、
海田市駅を過ぎたあたり(広島駅まで約5.5km)を通過中、原爆投下に遭遇。
なんとか歩いて司令部までたどり着く
原爆投下後、山本さんは広島市内に向かいます。
そこで山本さんが目にしたのは、辛うじて人間とわかる人の群れでした。
ここからの体験は上で紹介した本や新聞記事で是非読んでいただきたいです。
(私が一部だけを安直に書き写せるような内容ではない気がしています・・・)
その中で出てくる地名を、アメリカ軍が戦後作成した地図2に示します。
この地図で濃い赤色は全壊、薄い赤色は半壊の地域を意味しています。
1945年8月7日
丹那から船で呉市手前の安浦まで移動し、夕方、大乗村の駐屯地に戻る。
1945年8月8日
上官から叔父さんの安否確認をすることを勧められ、
再び広島市内へ行き、弥助叔父を探し続ける。
1945年8月9日
野宿で夜を明かし、広島市内で弥助叔父を探し続ける。
夜、大乗村の駐屯地に戻る。
1945年8月10日〜
野宿しながら広島市内で弥助叔父を探し続ける。
食料が尽きると大乗村の駐屯地に戻り、再び広島市内へ。
1945年8月15日
大乗村の駐屯地で玉音放送を聞く。
1945年8月16日
広島市内で弥助叔父を探し続ける。
「8月19日に解隊式」との命令
1945年8月18日
「朝鮮出身の兵隊を19日に三原へ集結」させる引率指揮官を命じられ、
そのまま自己復員して良いことになる。
1945年8月19日〜
朝鮮人兵を4人引率後、その足で広島市内へ。
その後は野宿しながら、弥助叔父を探し続ける。
1945年9月15日
最後の別れをのべに『金正堂書店』跡へ
この日、地下の倉庫があったはずの場所を掘ると、
焼け残った書籍が灰のかたまりになって出てきたそうです。
思い切りそれを突くと仄赤い灰が見え、息を吹きかけると、それは炎に。
山本さんは祖母のキクさんが持たせてくれた懐炉をいつも大事に身につけていました。
そうだ、この火をこの懐炉に移し、星野村に持って帰り囲炉裏へさらに移し弥助叔父の無念をはらすことのできるまで消すことなく守りつづけてやろう。消してなるものか。体の底からそんな思いがこみあげてきた。同時にそれはこの手で身罷らせてあげた人たちの供養もつづけてあげることにもなる。あの人たちの無念の思いも俺は火をともしつづけることで貫いてあげねばならぬのだともしていった。
(『錠光如来』p.180)
山本さんは懐炉灰にその火を移して持ち帰ることにします。
・・・懐炉灰。これでピンとくる人はなかなかいないと思います。
ネットを探すと丁寧に説明してあるページがありました。
豊富郷土資料館のブログ 『寒い日は「懐炉」のことを調べよう!』
簡単に説明すると、
木炭の粉末にナスの茎、麻殻、桐灰を混合して葉巻くらいの大きさの紙筒に詰めたもの。
これに火をつけて、メガネケースほどの大きさの金属容器に入れ、暖をとったそうです。
山本さんの持っていた懐炉灰は6本。1本が約5時間持つので、猶予は30時間程度。
最後の1本でなんとか星野村までたどり着きます。
以来、囲炉裏でこの火を守り続けます。
1946年11月9日
長女 洋子 誕生
1950年6月1日
次男 拓二 誕生
1952年4月24日
次女 小枝子 誕生
この子がハイハイをし始める頃、
座敷を広げるため囲炉裏をつぶし、火は座敷の火鉢に移す。
1966年5月
長男郁雄が始めた無農薬茶の栽培を取材するため朝日新聞記者の友松功一さんが取材に訪れる。
友松さんが取材で何度か訪れた後、
傍の火鉢に気づき、「山あいとは言え、初夏でも火を入れるのですね」と問いかけました。父はしばらく黙っていましたが、意を決したように語ったそうです。「ここで燃えているのは広島の原爆の火です」と。
(中略)
友松さんは何度も通ってきて父の話を聴き、その年8月6日の朝刊で火について報じました。
(朝日新聞2018年8月31日福岡版『聞き書き 星野村「原爆の火」』連載6回目)
朝日新聞の西部本社版では1面トップ、大阪本社版、名古屋本社版にも掲載されました。
(東京本社版では記事を見つけられませんでした)
1968年
星野村が火を受け継ぐ。
2004年5月11日
山本達雄さん死去
広島の金正堂書店は再建され、管理人も子供の頃たまに行っていました。
当時(1980年代)この本屋さんにこんな歴史があるなんてつゆ知らず・・・
お店は2011年1月に閉店し、今は外商のみで営業を継続されているそうです。
そして
山本達雄さんは亡くなる3年ほど前に長井健司さんの取材を受けています。
ー 何万人も一度に殺した大虐殺の兵器原子爆弾とアメリカを許せますか?
という長井さんの問いに父は、こう答えています。
「その事実は消えんけど、それはもう水に流す努力をせん限り、しょっちゅう殺し合いを繰り返す、あれと同じ結果しかない」
「一生懸命、気持ちを落ち着けて、そういううらみ心は洗い落とさにゃならん。その努力だけは死ぬまで続く」
(朝日新聞2018年9月1日福岡版『聞き書き 星野村「原爆の火」』連載7回目)
管理人から一言
東京都内にある「平和の灯」
の説明板では「◯◯の火を灯して、平和を祈っています」とだけ書かれているパターンがほとんどです。
多分、昔も今も、多くの人が平和を祈っています。でも、戦争は起きたし、今も地球上のあちこちで続いています。
戦争をなくすためには、戦争で人々はどんな経験をしたのか?に加えて、なぜ戦争が起きたのか?なぜ終わらせられなかったのか?も明らかにしていかないといけないはずです。
各地にある「平和の灯」がそういうことを考えるきっかけになればいいんですが、”灯されているだけの火”ではそんなきっかけになりそうもありません。これを生かすためにできることはないのか、と思ってこんな記事を書きましたが、今後も何かできることを思いついたら実行していきたいと思います。
更新履歴
2021年8月15日 新規作成
2022年5月23日 「『Hiroshima City Map 1945』の一部に追記」の図で陸軍船舶司令部の位置を修正
2023年5月6日 表形式の表現修正
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
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山本彌助『番地入大廣島市街地圖』(金正堂書店 1940)
NDL ONLINE(国会図書館)『番地入大廣島市街地圖』(インターネット公開) ↩︎