江戸の名残と軍都の痕跡ー深川の空襲被災地
2023年4月30日訪問
「ヒロシマ講座」江戸の名残と軍都の痕跡をたどって東京を歩く フィールドワーク第2期の6回目
東海林次男さんの案内で深川近辺をめぐりました。
少し雨が降るタイミングもありましたが、ギリギリで天気は持った感じ。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
まず今回行くところの航空写真を見てみます。
1944年と1947年を比較すると、空襲で一帯がすっかり焼けてしまっているのがわかります。
最初は
洲崎神社 google mapでこの辺
鳥居をくぐってすぐの所にあるのが
波除碑(なみよけひ)
横に立っている「津波警告の碑」にはこんなことが彫ってあります。
寛政三年九月四日暴風雨による津波が襲来しこの付近一帯の家屋も住民も海中に押し流されて被害はなはだしく以来幕府はこの付近を空地とし家屋を建てることを禁じ津波襲来を警告して寛政六年今の洲崎神社と平久橋付近の二箇所に津波渓谷の碑を立てた両碑は大正十二年震災と昭和二十年戦災によって破損した
昭和三十三年十月一日
江東区第四号
ここにも書いてある通り、碑はひどく壊れてるんですが、
原因は関東大震災と東京大空襲でこの辺りが焼けてしまったことにあります。
石が火災等で高熱にさらされると亀裂などが生じて壊れてしまいます。
壊れる前の姿ってどんななのかなぁ、と思って探してみると、ありました。
大正15年(1926)発行の「深川区史 上巻」1p.101
寛政六年十二月に荒地東西の北端に石標を設け、見通しの標としたのであった。西方のものは今次の火災で破壊してしまったが、東方のものは今も尚辨天社の門前に現形を存じており、(以下略)
「今次の火災」とは関東大震災での火災、「辨天社」と言っているのは現在の洲崎神社のことで明治の神仏分離の時に名前を変えています。
洲崎神社境内には他にも関東大震災、東京大空襲の火災で壊れてしまった石碑があります。
さて、説明文にもあった通り、波除碑はもう一箇所あります。
平久橋 google mapでこの辺
ここには東京大空襲の戦災殉難者供養塔もあります。
もう少し歩くと、
富岡八幡宮 google mapでこの辺
1945年3月10日の東京大空襲後の3月18日に天皇がここで空襲の被害状況を視察します。
当時の新聞記事(1945年3月19日朝日新聞)の写真はここ富岡八幡宮で撮影されたものです。
この紙面のリードにはこんなことが書いてあります。
ふりがなは私が入れてますけど、ふりがな無しで読めますか?
九重の奥深くまで醜翼の羽摶き(はばたき)伝わり高射砲の轟音響く皇国の危局。朝に夕に一億国民ひとしく忠誠の心いまだ足らざるを嘆き悲しむ。今はただ伏しては不忠を詫び奉り立っては醜の御盾(しこのみたて)となり、皇国3千年の歴史を太しく護り抜かんことを誓うのみである。あぁ、しかも、この不忠の民を不忠とも思し召されず、民草(たみぐさ)憐れと思し召し、垂れさせ給う大御心(おおみこころ)の畏さ(かしこさ)よ。18日、天皇陛下には帝都の空襲被災地の御巡幸を仰出(おおせいだ)されたのである暴虐の翼いつ襲いかからんやもはかりがたきとき、民草(たみぐさ)や如何にと宸襟(しんきん)を悩ませ給ひ聖駕(せいが)を焦土に進められたのである。かの関東大震災のみぎり、摂政殿下に在(いま)しました陛下には御乗馬で自然の暴虐の跡を御巡視遊ばされた御ことがあった。今、未曾有の国難下、一天万乗(いってんばんじょう)の大君(おおきみ)として神にしある御身を敵暴虐の跡に進めさせ給ふのである。民一億、この大御心(おおみこころ)に何を以て応え奉るべき、我ら畏(かしこ)みていう言葉を知らず・・・
最上級の敬語がいっぱい出てきますが、私が意訳(?)すると
「この危機的状況に我々国民は天皇陛下に対する忠誠心が足りない。それなのに、天皇陛下は我々国民のことを気にかけて、戦災地を見に来てくれた。あぁ、このありがたーい天皇陛下のお心に我々国民はどうやってお応えすればいいのか、恐れ多くて言葉もない。」
という感じでしょうか。
この記事書いた人、戦後どうしたのか気になるところです。
現在、このことを記念する碑があります。
「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」碑 google mapでこの辺
古い方の「天皇陛下御野立所」碑は1960年4月29日に建立されたもの
富岡八幡宮社報 平成24年秋号の記事
に出ている写真をみると、
以前は授与所 google mapでこの辺
の横のこの辺にあったみたい。
「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」碑ができた時に現在の場所へ持ってきたそうです。
そして、こちらの「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」碑は2019年3月18日に建立されたもの
説明文にはこう書いてあります。
昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮
昭和十九(一九四四)年十一月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。昭和天皇はこの年十月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
天皇は三月十日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦の御決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、十八日日曜日午前九時から一時間と決定された。
御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた拝殿の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
内相が被害状況の御説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
大戦が八月十五日に終結した。八月十五日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。富岡八幡宮友の会一同
加瀬英明
この碑の向かい側には
昭和天皇御製歌碑 google mapでこの辺
天皇陛下御在位六十年奉祝記念
大東亜戦争末期の昭和二十年三月十八日、天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京を御視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御製である。陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和六十一年十月二十六日
天皇陛下御在位六十年東京都奉祝委員会
どちらも天皇がここで惨状を見たから終戦の決断をしたんだ、と書いてあるんですが、
戦争終わったのはこの5ヶ月後なんですよね。。。
この日、天皇がどういう経路で視察したのかが、
「天皇陛下今次空襲ニ依ル東京都内罹災地ヘ行幸ノ件」2という文書に出ていました。
地図上で見てみると。。。
割と広範囲を回ってるんですが、
この時天皇が見た景色に遺体は一つもありませんでした。
久保田重則さんの「東京大空襲救護隊長の記録」(p.250)3より
そのうちに、近く天皇陛下が被爆地域を視察されるということが内々で関係方面に知らされた。そして、巡幸路から見えるところだけでも早く死体の取り片づけをするように鞭撻され、昼夜兼行で巡幸予定地域の処理がつづいた。
一番関係者の頭を悩ませたのは、堅川、大横川など多数の堀割に浮く死体であった。おびただしい数が海に流れていったはずなのに、まだたくさん浮いているのである。消防隊の鳶口でひっかけ引き寄せておいて、ロープをかけて橋の上に引き揚げるわけで、一体を運び上げるにも大変な手間がかかった。こうして、川いっぱいの死体をやっと引き揚げると、翌日の満潮時には、また川いっぱいの死体で、一体どこから来るのか皆目わからない死体の攻撃に、死体収容関係者は、連日悪戦苦闘がつづいた。
こうして三月十七日の夜までかかって、予定の巡幸路付近だけは、何とか片づけたというわけである。しかし、そのほかの広大な地域に散乱している無数の死体の処理は遅々としてしてはかどらず、策に窮した都庁は、都内各所の荒れた窪地や湿地、さらにはちょっとした空地に穴を掘ってどんどん死体を投げ込んでは上から土砂をかぶせていったのである。これらの中には、最近になって建築や土木工事の現場から発掘された例も多い。
渋谷区のある野球グランド付近の住民はこんなことを私に語った。
「このグランドのあった所はもとは低い湿地でした。東京の空襲のあとでは、この窪地に毎日トラックでたくさんの死体が運ばれ、上に土をかぶせられたのです。今はこんな立派なグランドになっていますがね」
こうして、都内の死体片付けには一ヶ月以上を要した。
しかし、このような処理さえもされず、隅田川や多くの堀割から東京湾、さらには外洋へと流れて行った無数の死体は、はたしてどのような運命を辿ったことだろうか。
私が昔今語り を始めるきっかけになった「狩野光男さんが描く東京大空襲パネル 」という絵画パネルがあるんですが、この中で狩野さんはこう言います。
「もし天皇が、山のような遺体を見ていれば、終戦の日が早まったのではないか。埋められた人の気持ちを思うと本当に胸がつまります。」
仮に遺体を見なかったとしても、想像はつくはずだと私は思います。
”終戦の御聖断”まで5ヶ月は長すぎです。
富岡八幡宮内の戦争の傷痕をもう少し巡ります。
合末社 google mapでこの辺
鳥居が柱だけになっていますが、これは焼夷弾の直撃を受けたもの。
ここに説明版があるんですが、2020年に設置された新しいものです。
この説明版について東京新聞の記事がありました。
東京新聞2020年8月15日「<つなぐ 戦後75年>鳥居の石柱を戦災遺跡に 深川生まれの浜田さん、富岡八幡宮に説明板を奉納」
戦災樹木もあります。
写真の木は社務所の前
にあるものですが、
「東京都城東3区における戦災樹木の残存状況と損傷状態に関する研究」4という論文によると、境内にはたくさんの戦災樹木があるようです。
富岡八幡宮を出て、
永代寺 google mapでこの辺
江東区役所富岡出張所
の案内板に1852年に作られた地図がのっていて、
この辺りを拡大すると「永代寺門前町」と書いてあるように、門前仲町の「門前」は永代寺を指しています。
永代寺は大きなお寺だったんですが、明治の神仏分離で廃寺になり、跡地が深川公園に。
その後、吉祥院が永代寺の名前を引き継いで今に至ります。
現在の永代寺に入ってすぐ右側に「戦死戦歿者戦災被歿者供養塔」があります。
入って左側には関東大震災の被災者を慰霊する「地蔵菩薩大慈大悲」碑があります。
老朽化で新しく作り直されたもので、古いものが裏にひっそり置いてありました。
この先には
深川不動堂 google mapでこの辺
この横の駐車場のところへ色々な石碑があります。
尾上菊五郎碑など google mapでこの辺
元々は五代目尾上菊五郎の銅像が立っていたのですが、
戦時中の金属供出で供出したと書いてあります。
五代目尾上菊五郎丈
の銅像は大東亜戦下
銅鐡回収の令に應じ
後継六代目丈之を獻
納す兵器に改鋳せら
れ君國に盡すの大な
る實に五代六代を以
て忠孝兩全たりと謂
うべし予其擧を賛し
題額して永遠に傳ふ
昭和十八年
二月十八日
東京市長
陸軍大将
岸本綾夫
其角主人・深川のススメというサイトにこの像に関する記事
がありました。
銅像時代の写真も載っています。
そして奥の方に近日中の解体が予告された大きな碑がありました。
江東区教育委員会発行「江東区の文化財 4門前仲町界隈」5p.24によると
亀裂が著しくコンクリートで補修されている。
豊来講は深川不動堂の講の1つで、名の由来は講元の豊田市蔵が銀座で「豊来庵」というパン屋を営んでいたことによるという。(中略)本碑は豊来講を記念して(中略)大正10年(1921)11月に建立されたものである。
本当にボロボロで管理が大変でしょうから取り壊すのもしょうがないと思いますが、
これもある意味戦争の犠牲です。
次は
深川公園 google mapでこの辺
繰り返しますが、ここは元々永代寺
富岡八幡宮別当永代寺跡 google mapでこの辺
他にも
石造灯明台 google mapでこの辺
明治卅七八年役戦死者忠魂碑 google mapでこの辺
その隣には
おまけ
帰る途中で 「深川名物きんつば」という看板発見・・・
ちなみに場所はここ深川 華
こ、こりは。。。
5個で税込700円(だったかな?)
うまい。甘さ控えめ、あっさりしてて、むしゃむしゃ食べられました。
更新履歴
2023年5月7日 新規作成
2023年6月6日 文責追記
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記
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深川区史編纂会 編『深川区史』上巻,深川区史編纂会,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3436374 ↩︎
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久保田重則 著『東京大空襲救護隊長の記録』,新人物往来社,1985.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12283830 ↩︎
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根岸尚代、菅野博貢(2015) 東京都城東3区における戦災樹木の残存状況と損傷状態に関する研究(ランドスケープ研究 : 日本造園学会会誌78(5):2015.3)AgriknowledgeでのPDFファイルリンク ↩︎
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江東区教育委員会生涯学習部生涯学習課 編『江東区の文化財 4 (門前仲町界隈)』,2009.3. 国立国会図書館蔵書(未デジタル化) https://id.ndl.go.jp/bib/000010083818 ↩︎