虐殺100年の現在地ー埼玉県正樹院
2023年5月27日訪問
「ヒロシマ講座」虐殺100年の現在地〜歩いて考える関東大震災 フィールドワークの4回目
日朝協会埼玉県連合会会長の関原正裕さん、むくげの会の木島修さんに案内していただきました。
今回もまず現場を見てから、お話を伺うスタイル。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
正樹院 google mapでこの辺
ここにあるのは、関東大震災の後に虐殺された具學永(ク・ハギョン)さんのお墓です。
具學永さんのお墓 google mapでこの辺
正面:
感天愁雨信士
右側面:
大正十二年九月六日亡
朝鮮慶南蔚山郡廂面山田里居
俗名 具學永
行年二十八才
左側面:
施主 宮澤菊次郎
外有志者
お墓の下はこんな風に石が積み上げてある形なんですが、なぜこのようになっているのかは分からないそうです。
関東大震災の後に虐殺された朝鮮人犠牲者の名前が刻まれたお墓はほとんどなく、
個人の名前が刻まれているのはここと、常泉寺
の2箇所。
具學永さんは事件の2年前からこの辺りに住んで、朝鮮アメを売っていたそうです。
人の良い男性で、寄居の町民で彼を知らない人はいなかったとも言います。
『寄居町史 通史編』1に記述があるので、そこから少し引用します。
寄居町でも用土村の自警団員らの手によって、桜沢村の真下屋という木賃宿にいた朝鮮人の飴屋の具学永青年が、保護されていた寄居警察署の留置場から引きずり出され、鳶口などで乱打撲殺された。死の直前、彼は自分の血で「日本人罪無きを罰す」と漢字で書いたという。事件後、用土村から一二名、花園村から一名が検挙され、浦和地裁で三名に実刑が課せられた。遺体は、当時あんま業を開業していた宮沢菊次郎がひきとり、旧寄居警察署に隣接していた正樹院に埋葬された。(中略)事件直後に、用土村の有志は収監者への寛大な措置を求めた「嘆願書」を提出した。
(『寄居町史 通史編』p.957)
具學永さんが殺されたのは正樹院に隣接する寄居警察署(深谷警察署寄居分署)
お話を伺った木島さんによると、
寄居警察署は1974年に新庁舎へ移転し、跡地は駐車場になったようです。
後にその駐車場は道路になります。
『大正の朝鮮人虐殺事件』2に出ている図と国土地理院の航空写真を見比べてみると、敷地はおそらくこの辺りだったと思われます(1960年の航空写真なので建物は当時と違うかもしれません)。
「写真A」右側の塀の向こう側が具學永さんが殺された旧寄居警察署、写真奥が正樹院です。
この写真には写ってませんが、写真向かって左側に証言者の一人である藤野長太郎さんの家があったそうです。虐殺を目撃した藤野さんの証言は『大正の朝鮮人虐殺事件』2p.13、『かくされていた歴史』3p.120で読めます。
通りから旧寄居警察署に入る道が恐らくこの辺り。奥が旧寄居警察署
この事件の特徴は、虐殺を実行したのが地元寄居町の人たちではなく、用土村や花園村の人たちだったという点です。関原さんは、この背景に在郷軍人の「不逞鮮人」観があったのではないか?という視点でお話をしてくださいました。
実際、地図を見るとわかりますが、数キロ離れたところからわざわざ殺しにやってきています。
事件後、用土村有志が収監者への寛大な措置を求めて「嘆願書」を提出していますが、それが『寄居町史 近・現代資料編』4に掲載されていました。
当時の人たちがこの事件をどう捉えていたのか?が少し見える気がするので全文引用します。
謹テ浦和地方裁判所検事正 閣下奉嘆願候
本月五日夜寄居町ニ突発致候騒擾ハ実ニ聖代ノ不祥事ニシテ某等一同恐懼汗顔ニ耐ヘサル所ニ有之候、今ヤ本件被告トシテ用土村外一ヶ村ヨリ多数ノ収監者ヲ出シ御手数相煩シ居リ候処、元来彼等平素ノ行状ハ決シテ不良ナルモノニアラスシテ荀モ重大ナル犯罪ヲ為スカ如キモノニ無之、唯シ当日及其前后ノ状況ハ驚クヘキ流言蜚語頻リニ臻リ地方一帯人心陶々トシテ極端ナル恐怖ニ襲レ戦々トシテ動モスレバ常規ヲ逸シタル行動ヲ為スモノ少ナカラサリシ実情ニシテ偶々事件ノ当夜熱狂セル多数民庶ノ集合シツツアル際本郡桜沢村木賃宿真下屋方ニ在泊セルヲ聞知シ群集ノ昂奮忽チ其極ニ達シ彼等又所謂群集心理ニ支配セラレ不知不識ノ間ニ騒擾ノ渦中ニ没シタルモノト存セラレ候者以外ニ本村住民中尚ホ法ニ触ルルノ行為ヲナシタル者ナキヲ保シ難ク憂慮致居リ候、乍然多数ノ収監者ヲ見タル今日既ニ一般人心幾分動揺ノ兆ヲ認メ候場合今後万一多数ノ検挙ヲ見ルカ如キコトアランカ地方自治運行上モ少カラザル支障ヲ招来スヘキコトト奉存候、要スルニ今回ノ如キ騒擾ヲ醸シタルハ一ニ聖代自治団体ノ民トシテ操守節制ニ対スル訓練足ラサルノ結果ニシテ某等又一半ノ責ヲ負ハサルベカラザルヲ感シ恐縮ニ禁ヘサル次第ニ御座候将来一層部民ノ訓練ニ努力可致収監者等ニ対シテ更ニ厳重戒飾ヲ加へ再ビ斯ノ如キ妄動軽挙ナカランコトヲ期セシムヘク候、希クハ某等ノ苦哀御清鑑ノ上収監者ニ対シ寛大ノ御処置相賜度同時ニ今後検挙者ノ続出ハ地方自治ノ上ニ某等ノ最モ憂トスル所ニ有之候、就テハ如上ノ事実御賢察ノ上何分ノ御慮相賜度関係者有志連署奉嘆願候 恐惶
大正十二年九月二十九日
連名
(『寄居町史 近・現代資料編』p.239)
横書きだと読みにくさ倍増。。。恐らく多くの人は読み飛ばしたと思いますので
管理人的に意訳すると、
「この度はご迷惑おかけしております。
検挙された者たちは決して悪い奴ではございません。
当日は流言蜚語で皆、恐怖に殺気立っておりました。
そこに桜沢村に朝鮮人がいるとの話を聞き、群集の興奮が極みに達してしまいました。
そしていわゆる群集心理に支配されて、知らぬ間にあのような事件を起こしてしまったのです。
今回のようなことが起きた原因の一つは「操守節制ニ対スル訓練足ラサルノ結果」でございます。
検挙された者には厳しく注意しますので、寛大な処置をお願いします。
また、今後さらに検挙される人間が増えると地方自治に多大なる影響が出てしまいます。
その辺りご配慮くださいますよう、よろしくお願いします。」
っていう感じでしょうか。
もっとくだいて
「検挙されてる人たち悪い人たちじゃないんです。
恐怖のあまりやりすぎちゃいました。今度から気をつけるんで、今回はご容赦を・・・」
と言い換えてもそれほどずれてない気がします。
全く無実の青年を、朝鮮人であるということだけで惨殺しておいて、
「操守節制ニ対スル訓練足ラサルノ結果」
つまり「やりすぎちゃいました」ってことですよね。
それは「流言蜚語による恐怖」のせいである、と。
この時実刑を受けた人の証言が『かくされていた歴史』3に出ています。
今、裁判があれば、皆、引っくり返してみせることも出来るが、なにしろ誰がどうしたとは云えないし、どうせ誰かが出て犠牲にならなければ済まないというので、わしら三人がその犠牲を背負い込んだようなものです。
(『かくされていた歴史』p.126)
「やりすぎて」というか、やってしまった原因は、差別意識だと思います。
それが恐怖につながり、不正確な情報がその恐怖を増長。
そして、わざわざ遠くに出かけて行ってまで殺すという行為につながる。
嘆願書にある通り、虐殺を実行していた人たちは「平素ノ行状ハ決シテ不良ナルモノニアラスシテ荀モ重大ナル犯罪ヲ為スカ如キモノニ無之」つまり人を殺すなんて考えられない普通の人たちだったのだと思います。それは普段の私たちと同じです。
人間の心なんて100年経っても、何にも変わっちゃいません、きっと。
とすると、現在を生きる私たちが100年前と同じことを繰り返さない保証はありません。
差別は全く無くなっていませんし、「情報の不正確さ」という点では偏ったネット情報だけを見ている現在の方がもっとヤバいのかもしれません。。。
差別をしている側は、差別をしていることに気づいていないことも多いと思います。
そこに、「普通の人間でも何かをきっかけに人を平気で殺せるようになる」という"事実"が重なれば、また同じことが起きても不思議じゃありません。
これを防ぐには、人間、すなわち自分自身のヤバさを知ることが重要なんじゃないでしょうか。
そのためには過去にあった事実を知って、人ごとではなく考えることが第一歩なんだと思います。
逆に言えば、過去にあった事実を伝えていない今の状況は相当にマズイとも言えそうです。
『大正の朝鮮人虐殺事件』2では著者の北沢文武さんが具學永さんの郷里に問い合わせた際のやりとりも書かれています。北沢さんの問い合わせに対する回答をした李さんという方の手紙の最後にはこのようなことが書かれていました。
私が、あなたのお仕事に対してこのように御協力を惜しまないのは、単にその調査内容が、わが同胞の、不幸で悲しき時代の歴史に関する事柄だからという理由だけによるのではありません。それ以上の理由として、あなたの、あくまでも事実を追求してやまない態度、真実をあらゆる偏見や利害に先行させようとする姿勢に、私も強い共感を覚えているということがあります。私は、そうした態度や姿勢こそが、国家とか民族とかの観念によって、不当に差別され阻害され続けてきた人間そのものの回復を勝ちとる、一つの確かな方法であると信じています。
(『大正の朝鮮人虐殺事件』p.30)
虐殺の事実を知るだけでなく、その背景にある日本の朝鮮支配と差別の歴史も合わせて押さえないといけないですね・・・まだまだ勉強しないといけないことがいっぱいあります。
おまけ
全く本題と関係ないんですが・・・
お昼は寄居駅前「今井屋」さんのカツ丼を頂きました。
衣にさっぱりしたソース味がついてて、とても美味。
(時間に余裕を持っていきましょうね)
そしてみかんジュース
寄居駅南口駅前拠点施設Yottecoで売っていて、これも美味。
後で調べたら(寄居みかん100%使用 寒熟寄居蜜柑ジュース
)なんと生産地区ごとに異なる6種類があるそうです。
今回飲んだのがどの地区のものか?
・・・その地区のシールが貼ってある面を写真に写してませんでしたorz
更新履歴
2023年5月29日 新規作成
2023年6月6日 文責追記
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記
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寄居町教育委員会町史編さん室 編『寄居町史』通史編,寄居町教育委員会,1986.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9643818 ↩︎
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北沢文武 編著『大正の朝鮮人虐殺事件』,鳩の森書房,1980.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12229296 ↩︎ ↩︎ ↩︎
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『かくされていた歴史 : 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』,関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会 (日朝協会埼玉県連合会内),1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12229336 ↩︎ ↩︎
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寄居町教育委員会町史編さん室 編『寄居町史』近・現代資料編,寄居町教育委員会,1987.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9644121 ↩︎