江戸の名残と軍都の痕跡ー築地
2023年5月28日訪問
「ヒロシマ講座」江戸の名残と軍都の痕跡をたどって東京を歩く フィールドワーク第2期の7回目(最終回)
東海林次男さんの案内で築地近辺をめぐりました。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
スタートは
築地本願寺 google mapでこの辺
正面入って左側に地下の合同墓があるのですが、合同墓ができる前、ここには防空壕があったそうです。防空壕はコンクリートでかなりガッチリ作ってあって、200人くらいは収容できるものだったとのこと。
築地本願寺を出て
門跡橋親柱 google mapでこの辺
関東大震災後の震災復興橋梁
道路を渡ったところに
八紘一宇の碑 google mapでこの辺
紀元二千六百年
八紘一宇
築地門跡青年団
今は旗を掲揚する所が碑と離れてありますが、
元々はこの碑のところにありました(赤マルのところ)
「八紘一宇」
検索するといーっぱい結果が出てきますが、普段聞く言葉ではないです。
いつ頃よく聞かれた言葉か、というと。。。
1937年(昭和12年)発行の『八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚』1なんて本があります。
大日本は萬世一系の 天皇皇祖の神勅を奉じて永遠に之を統治し給ふ。これ我が萬古不易の國體である。この尊厳なる國體を永遠の指標とする我が國民の精神は、時運を貫き隆々と栄えて窮るところがない。併し乍ら我が國と雖も現實の世界の裡に在り、各國家・各民族と共存して居る以上は、獨りこの世界史的問題に関係がないといふことはあり得ない。否、我が日本こそ諸國家・諸民族に率先し、萬死をも辭せざる不退轉の覺悟を以て、世界を闘争と破滅とより救濟する爲にこの難局に當らねばならぬ。然らば何故に我が國が率先してこの難局に當らねばならぬか。それは宇宙の大生命を國の心とし、之を以て漂へる世界を永遠に修理固成なして、生成發展せしめる我が天壌無窮の國體が、正に全世界を光被すべき秋に再會して居るが爲である。流轉の世界に不易の道を知らしめ、漂へる國家・民族に不動の依據を興へて、國家・民族を基體とする一大家族世界を肇造する使命と實力とを有するのは、世界廣しと雖も我が日本を措いては他に絶對にないのである。
(『八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚 改訂 (思想国防資料)』p.5-6)
「八紘一宇」とは、皇化にまつろはぬ一切の禍を拂ひ、日本は勿論のこと、各國家・各民族をして夫々その處を得、その志を伸さしめ、かくして各國家・各民族は自立自存しつつも、相倚り相扶けて、全體として藹然たる一家をなし、以て生成發展してやまないといふ意味に外ならない。
(『八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚 改訂 (思想国防資料)』p.11)
原典にはフリガナ振ってあります。ま、一部読めなくても、雰囲気わかりますねぇ。
どこのカルト宗教が出した文章ですか?という内容ですが、日本の文部省が出したものです。
まず、日本は神の国であることが前提。だからこそ「一大家族世界」を創造する使命と実力を持つのは世界広しといえども日本をおいて他に”絶対”ない。
「八紘一宇」というのは『皇化にまつろはぬ一切の禍を拂ひ』つまり”天皇に服従しない者を排除して”、各国家・各民族が自立自存しつつ、助け合いながら家族のように暮らして発展していくという意味だよ。と言っているようです。
『各國家・各民族は自立自存しつつも、相倚り相扶けて、全體として藹然たる一家をなし、以て生成發展してやまない』だけ見ると、いいこと言ってるような気にもなりますが、その前提は神の国日本による世界征服です。
「大日本帝国」という世界征服をたくらむカルト宗教が「八紘一宇」というスローガンを掲げて本当に侵略戦争をしちゃったわけで、その時のスローガンを今でも平気で出してるのって、なーんにも反省してないってことになると管理人は思います。
勝鬨橋 google mapでこの辺
船が通る時に真ん中がぱかっと開く橋です。
どんなふうに開いたかがわかる写真が『東京市 市政週報 第7号』(1939年5月発行)2に出てました。
最後に開いたのは1970年11月29日3だそうです。
元々は「かちどきの渡し」
1932年の地図を見るとまだ橋はなく「カチドキノ渡」があります。
そして橋のたもとにはこんな碑があります。
勝鬨橋之記
明治三十七八年の戦役に
於て皇軍大捷す京橋區民は
之が戦勝を記念し此處に渡
船場を設け勝鬨の渡と名付
け東京市に寄付す
昭和八年六月東京市は新に
双葉可動橋の架設に着手し
偶日支事變勃發せるも今年
六月功を竣ふ即ち橋に名付
くるに亦勝鬨を以てし長く
皇軍戦勝の記念となす昭和十五年十二月
東京市長
大久保留次郎 撰并書
光輝ある紀元二
千六百年に當り勝
鬨橋竣成す
協賛會は之を祝し
本碑を建設す
勝鬨橋竣功祝賀協賛會
理事長 京橋區長
筒井茂也
1940年に紀元2600年を記念してオリンピックと万国博覧会が東京で開かれることになりました。
当時「万博」という月刊誌が発行されていて、その1938年7月号に「東京会場付近の交通はどうなるか 愈々決定された交通整理要綱」という記事があり、下のような地図とともに
一、第一會場
(イ)京橋銀座方面寄りの入退場
(中略)
自動車は勝鬨橋より直線、會場正門に到り、右折ホームに於て乗降せしめ、其のまま前進、新月島橋より順路退場一方交通とする。
(『万博 1938年7月号』p.6)4
とあります。
下に『万博』掲載地図と1947年の地図を並べてます。
向きを大体揃えるために『万博』地図を上下反転させてますが、左上が勝鬨橋で、1947年地図内の青枠がほぼ同じ範囲です。
銀座方面から勝鬨橋を渡ると第一会場(地図上は四号地日本館)の真正面に到着するような位置関係です。
ところが、皮肉なことに先ほどの記事と同じ『万博 1938年7月号』の1ページには次のような記事が出ています。。。
聖戰の目的達成の後に
一層の充實を期す
重大時局に鑑み本博の開催一時延期昭和十一年十一月、總理大臣を會長とする紀元二千六百年祝典評議員會の決議により紀元二千六百年奉祝記念事業の一として指定せられ、日本万國博覽会協會主催の下に昭和十五年の開催を目指して着々其の準備を進め來つた本博覧會は、現下の非常時局に對處する政府の大方針に依り一時之を延期し、今次の事變終了を待つて、一層充實セル万國博覧會の開設を企圖する事となつた。
(『万博 1938年7月号』p.1)
1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋事件があり、中国との戦争が泥沼化していたため、オリンピックは中止、万博は延期になってしまいました。
戦争末期にこの辺りも空襲を受けますが、焼かれず残った建物が結構残っています。
特徴は看板建築。
看板建築とは、関東大震災後に作られた、木造建築の正面が平坦で、そこを銅板やタイル、モルタルなどで仕上げた建物のことです。
詳しくは
江戸東京たてもの園HP「看板建築展」https://www.tatemonoen.jp/special/2018/180320.php
や
江戸東京たてもの園HP「江戸東京たてもの園だより」第51号https://www.tatemonoen.jp/about/public_past.php
などに説明があります。
こういう建物です。
また、関東大震災前の「出桁造(だしげたつくり)」の建築も残っています。
出桁造とは、壁に取り付いた腕木が「出桁」と呼ばれる軒先の長い横材を支える造りのこと5で、
この写真がわかりやすいと思います。
「空襲で焼け残った」と書きましたが、
戦後すぐの1945年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために第一復員省資料課が「全国主要都市戦災概況図」6を作成しました。その中の『東京その1』7にこの近辺が含まれていて、勝鬨橋のところで紹介した1932年の地図に空襲被害を受けた場所が赤く書き込んであります。
先ほど紹介した建物の位置を書き込んでみると。。。
「出桁造」で紹介した写真DとEの位置が赤くなっています。
とはいえ、この地図が作成されたのは1945年の12月。8月15日に戦争が終わって4ヶ月ちょい。この地図の実物を参考URLから見ていただければわかりますが、こんな短期間にこれだけのものを作ったのは驚異的な仕事です。概況をとにかく早く知る、という目的は十分に達していると思います。
戦後すぐ、民間でも戦災地図を作った人たちがいました。
1946年9月に発行された『コンサイス東京都35區區分地図帖 : 戰災燒失區域表示』8
焼失区域に黄色く色がつけてあって、こちらだと先ほどの「出桁造」の建物の場所に色はついていません。1948年3月に米軍が撮影した航空写真の同じ範囲を切り抜いたものも並べましたが、地図上の消失区域は航空写真で少し屋根の色が違って見えている部分と一致しています。
引用で紹介しているのは国会図書館にある出版当時のものですが、管理人は1985年に出版された復刻版を持ってまして、復刻版にはこの地図を作った植野録夫さんという元日本地図株式会社社長さんの手記が掲載されていて、この地図を作るときの苦労を少しだけ見ることができます。
地図出版の第一号は、戦争の経過、経緯を地図の上に表現することから踏み出された。
(中略)
特に、「帝都」東京が一体どの位戦災を受けているか、それをはっきりさせることは当時の東京の混乱を収拾し、復員者や疎開者の不安を解消するためにも必要なことであった。
しかし、いざ作業を始めてみると、どこがどれだけやられ、どこが焼け残っているか、皆目見当もつかなかったが、焼失図出版の意味と地図出版社の使命感が私どもをふるい立たせ、10月頃から現地調査にとりかかった。調査の指揮をとったのは地図部員の林崎祝氏であった。氏は毎日地下足袋をはき、まだ満足な交通機関もなく、食べるものもなく戦災の余燼くすぶる東京の廃墟の中を歩き続けた。2ヶ月にわたってこうした調査を続け、昭和20年もおしせまった12月に、まず「帝都戦災焼失地図」一枚物を完成。さらに区分別に詳密調査をし直して約9ヶ月。のべ12ヶ月もかかってようやく「戦災焼失区域表示 東京都35区 区分地図帖」を完成した。
(『戦災焼失区域表示 東京都35区 区分地図帖 復刻版』p.14)
ここからしばらくは説明板に説明をお任せしていきまして。。。
シーボルトの胸像 google mapでこの辺
アメリカ公使館跡 google mapでこの辺
この説明板に書いてある記念碑の2個は聖路加ガーデンの隅田川側
アメリカ公使館跡記念碑 google mapでこの辺
残り3個は
アメリカ公使館跡記念碑 google mapでこの辺
築地外国人居留地跡 google mapでこの辺
日本近代文化事始めの地 google mapでこの辺
聖路加国際医道院の定礎石 google mapでこの辺
右下赤マルのところ
ちょっとここは追加解説を。。
説明板にもある通り、戦時中この定礎石は御影石で覆い隠されて、その時の12個の穴が傷跡として残っています。
覆い隠されていた時代の写真は見つけられなかったんですが、
隠される前の写真を1930年の定礎式から間もない1933年発行の雑誌『土木建築工事画報1933年1月号』9で見つけることができました。
「神の栄光」という言葉を隠すための無惨な傷を見ていると、これを隠すように命じた側の浅さ、というかなんというか。なんか悲しくなります。
築地小劇場跡 google mapでこの辺
説明板には書いてありませんが、
ここ築地小劇場創立当時からのメンバーで新劇の名優といわれた丸山定夫を隊長に結成されたのが移動演劇桜隊で、広島の原爆で全滅しています。10
前田病院 google mapでこの辺
1933年に小林多喜二が築地警察署で拷問され、この前田病院で絶命
前田病院前から築地警察署は目と鼻の先です(奥に見えるビルが現在の築地警察署)
これで、東海林さん案内による「江戸の名残と軍都の痕跡をたどって東京を歩く フィールドワーク」全17回が終了。
本当に勉強になりました。まずは東海林さんに感謝です。
こうやって自分が知ったことをどう活かすか、という宿題があって、この記事もその一つの答えのつもりですが(第一期分がまだですけど)、このサイトはほとんどアクセスないんで、また違った形で活かせないか考えていきたいです。
まだまだ東京都内いろいろありますよね?東海林さん。
おまけ
フィールドワークの解散後、せっかくここまできてるんだから、ってことで、もう少し巡りました。
マグロ塚プレート google mapでこの辺
都営大江戸線 築地市場駅のA1出口を出てすぐのところ
1954年3月1日、米国が南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被爆した第五福龍丸から水揚げされた魚の一部(約2トン)が同月16日築地市場に入荷しました。国と東京都の検査が行われ、放射能汚染が判明した魚(サメ、マグロ)などは消費者の手に渡る前に市場内のこの一角に埋められ廃棄されました。
全国では850隻余りの漁船から460トン近くの汚染した魚が見つかり、日本中がパニックとなって魚の消費が大きく落ち込みました。 築地市場でも「せり」が成立しなくなるなど、市場関係者、漁業関係者も大きな打撃を受けました。このような核の被害がふたたび起きないことを願って、全国から10円募金で参加した大勢の子供たちと共に、この歴史的事実を記録するため、ここにプレートを作りました。
マグロ塚を作る会
1999年3月1日
BuzzFeedNewsの記事が参考になります。
2018年10月6日
忘れられた「原爆マグロ」 築地市場に埋められた、負の遺産とは
https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/tsukiji-godzilla2?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharecopy
この記事のその後が今の姿になるわけですが、
ほとんど工事の工程表と同じ扱いで、工事用の壁を撤去する時に一緒に片付けられても不思議じゃありません。
説明板の『この歴史的事実を記録するため』とはかけ離れた状態です。
築地にマグロ塚をつくる会http://tsukijimaguro.blogspot.com
波除神社 google mapでこの辺
この字がなんとも。。。「社」の字がずれてない?
説明板にある天水鉢なんですが、「貴重な文化財」と書いてある割には、前や横にいろいろなものが置いてあって、結構見つけにくい上、相当傷んでいるようです。
更新履歴
2023年6月6日 新規作成
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記
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文部省 編著『八紘一宇の精神 : 日本精神の発揚』,思想国防協会,昭和12.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1080580 ↩︎
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『市政週報』(7),東京市,1939-05. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1507577 ↩︎
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東京都建設局HP「かちどき橋の資料館」https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/road/kanri/gaiyo/kachidoki/index.html ↩︎
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『万博』(27),紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局,1938-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11365323 ↩︎
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江戸東京たてもの園HP「江戸東京たてもの園だより」第50号 p.2 https://www.tatemonoen.jp/about/public_past.php ↩︎
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国立公文書館HP「全国主要都市戦災概況図」 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0200000000/0203000000/00 ↩︎
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全国主要都市戦災概況図 東京その1,第一復員省資料課,1945-12 国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/item/3137224 ↩︎
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日本地圖株式會社 著『コンサイス東京都35區區分地圖帖 : 戰災燒失區域表示』,日本地圖,1946.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10980983 ↩︎
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工事画報社 [編]『土木建築工事画報』9(1)(95),工事画報社,1933-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1489149 ↩︎
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中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターHP「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?signpost=移動演劇さくら隊原爆殉難碑 ↩︎