虐殺100年の現在地ー千葉の虐殺現場を歩く
2023年6月11日訪問
「ヒロシマ講座」虐殺100年の現在地〜歩いて考える関東大震災 フィールドワークの5回目
千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会の平形千惠子さんに案内していただきました。
今回は前週(6月4日)に事前学習してから現場へ。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
船橋駅に集合して、まず最初に向かったのは
海軍無線電信所船橋送信所跡 google mapでこの辺
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。
大正四年(一九一五年)に船橋海軍無線電信所が創設された。大正五年にはハワイ中継でアメリカのウィルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。
大正十二年(一九二三年)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和十六年(一九四一年)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し太平洋戦争開幕を告げる「 ニイタカヤマノボレ一二〇八」 の電波もここから出た。
船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和四十六年(一九七一年)五月、解体されて栄光の歴史を閉じた。
上から見ると特徴的な円形が見られます。
説明板には"栄光"の歴史が書いてあります。
が、「救援電波を出して多くの人を助けた」という説明とは違う事実があります。
例えば、震災後にここからこんな電報が打電されています。
流言蜚語を広げまくっちゃってますね。。。
『大正12年 公文備考 巻155 変災災害 情報(5)』1より
『現代史資料第6』にも収録されています。
呉鎮副官宛打伝 九月三日午前八時十五分了解
各地方長官宛 内務省警保局長 出
東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし。(欄外のメモ)
此電報を伝騎にもたせやりしは二日の午後と記憶す。当時の衆人の印象は斯の如かりしなり。事後又は地方の人には考えも及ばざるべし。
(『現代史資料第6』2p.18)
そしてこの送信所の所長が地域の警防団に送信所の警戒を命じて、武器も渡して「朝鮮人は殺してもいい」と言ったという当時の警防団長の証言があります。(『いわれなく殺された人びと』3p.50)
そんな状況の中で何が起きていたか?この辺りの地図を見ながら見ていきます。
当時、北総鉄道(現在の東武野田線)は工事中で、多くの朝鮮人労働者が働いていました。
難読なので先に書いておきますが、「北方十字路」は「ぼっけじゅうじろ」と読みます。
送信所近くにある北方十字路近辺で虐殺がおこなわれています。
『関東大震災の治安回顧』4p.81によれば
まず、9月4日夜に北総鉄道の鎌ヶ谷粟野の飯場の朝鮮人労働者13人
粟野付近の在郷軍人会員等がこの13人を法典村へ送り出し、法典村の自警団員らが市川警察分署か市川鴻之台駐在の軍隊に引き渡そうとして、自警団員等百数十名で向かっていた途中
此の時該群集中に、罹災地に於ける不逞鮮人の非人道的行動を憤激する感情が一時に燃上し、何人が主唱するとなく一斉に、「遣つけて仕舞へ」と騒ぎ出し、右群集中の十数名は忽ち日本刀等を振つて之等鮮人土工に斬付け、悉く之を殺害して騒擾を惹起した。
(『関東大震災の治安回顧』p.81)
そして9月5日に東京から逃げてきた飴工場職工の朝鮮人3人
法典村の自警団員がこの3人を捕まえてきて、官憲に引き渡そうと向かっていたところ、9月4日の虐殺現場に差し掛かり
彼等自警團員は多数鮮人の死體が道路に横はつて居るのを目撃するや、遽かに殺氣立ち「遣つけて仕舞へ」と喧噪し、群集中の十数名は所携の日本刀其の他の凶器を以て同行の鮮人三名を斬殺し、再び騒擾を勃發せしめた。
(『関東大震災の治安回顧』p.81)
同年11月9日に塚田村・法典村の有志が七面堂で追悼会をおこなっていて、当時の新聞記事によれば遺骨もここに埋めてあるようですが、具体的な埋葬場所はわからないそうです。
馬込霊園 google mapでこの辺
ここには3つの碑があります。
古い順に
「法界無縁塔」
震災翌年(1924年)に船橋仏教連合会が船橋の自警団事件の犠牲者のために当時の船橋火葬場近くに建てました。
碑には何の説明もありません。ただ、これが朝鮮人犠牲者を供養するものだということはずっと伝えられ続けていたようです。
後で触れますが、1963年にこの場所へ移葬されています。
「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」
碑文はハングルですが、その日本語訳がフィールドワーク資料に出ていましたので、転記します。
西紀一九二三年九月、日本、関東地方大震災時に軍閥官僚は、混乱中、罹災呻吟する人民大衆の暴動化を憂慮し、自己の階級に対する憎悪の感情を進歩的人民解放の指導者と少数異民族に転嫁させ、これを抑圧、抹殺することによって、軍部独裁を確立しようと陰謀した。当時山本軍閥内閣は、戒厳令を施行し、社会主義者と朝鮮人たちが共謀して暴動を計画中であるとの無根なる言辞で、在郷軍人と愚民を煽動、教唆し、社会主義者とわれわれ同胞を虐殺するようにした。在留同胞中で此凶変蛮行による被殺者は六三〇〇余名を算え、負傷者数万に達した、この犠牲同胞の怨恨は、実に千秋不滅であろう。しかし、解放された我々は、世界の民主勢力と提携し、海内、海外の国粋的軍国主義の反動残滓勢力を撲滅し、真正な民主朝鮮を建設し、世界平和を維持することによって、宿怨を雪辱するよう積極的に闘争することを盟誓し、犠牲諸霊を慰労するために、ここに小碑を建立する。
在日本朝鮮大連盟中央総本部 委員長 尹 槿 撰
「移葬碑」
この碑文もハングルですが、先ほど同様にフィールドワーク資料の日本語訳を転記します。
関東大震災時犠牲を被った同胞墓地が船橋市本町二丁目八一六番地の環境に適合でなかったので一九六三年七月十九日現地に移葬しました。
ここに元々の場所が番地まで示されています。
明治22年(1889年)に複数の村にまたがる地域が船橋町となります5。
船橋市になった後、「本町二丁目」は昭和46年(1971年)に町名が変わって、複数の町名に分かれます。この時の『住居表示新旧対照案内図』6(夏見1~7丁目、夏見台1丁目、北本町1・2丁目)を見ると「本町二丁目」は現在の「北本町一丁目、二丁目、夏見三丁目」あたりになることがわかります。
上の地図は1971年のものですが、左下の旭硝子船橋工場の番地が830番地になってます。
碑が移葬された1963年頃の地図を探したところ
1955年の番地が細かく入っている地図を『船橋のアルバム : 写真で見る船橋の変遷』7に見つけました。「816番地」の表示はないんですが、814番地と817番地は赤マルの部分ですので、この辺りだったことが予想されます。
参考に1951年の『船橋市全図』8も横に並べてみます。
ここが現在のどのあたりかというと、
上の地図の範囲は下の地図の赤い四角枠辺りですので、現在の新船橋駅前あたりだと思われます。
証言も見つけましたが9、正確な位置ははっきりしないようです。
それと、移葬後の馬込霊園内での碑の場所ですが、“現在"は霊園内の中心にあリます。
移葬当時から霊園の中心だったかというと、そんなことはなく、この霊園はこれまでにかなり拡張されてきたようで、移葬された時期に近い1966年の航空写真によれば、当時は霊園の一番奥で雑木林に囲まれています。
次に向かったのは
習志野騎兵連隊・旅団司令部跡 google mapでこの辺
この辺りの1925年発行の地図を下に出しますが、赤字で「司令部」と書いている部分が、今いるこの場所。
近くに「高津廠舎」とありますが、ここは日露戦争の時にロシア人捕虜収容所、第一次世界大戦の時にドイツ人捕虜収容所になった場所です。
1923年の関東大震災時にはここに「陸軍習志野支鮮人収容所」が開設されました。
この収容所は朝鮮人や中国人を「保護」するために開設されたことになっていますが、実際にはここでも軍隊による虐殺がおこなわれています。
さらに周辺住民の自警団に「取りに来い」と命令し、朝鮮人を渡して虐殺させています。
軍が住民に殺させるために渡した朝鮮人は明らかになっている人数だけで18人います。
ここからは、軍隊から朝鮮人を受け取って虐殺してしまった地域の碑を巡っていきます。
高津観音寺 google mapでこの辺
入って左側の坂を登ったところに鐘楼、詩碑、慰霊碑があります。
1985年に韓国から贈られた
「普化鐘楼」
< 普化鐘楼建立文 >
一九二三年九月の関東大震災の際に無残に死んでいった韓国人の魂を慰めるために、ここ高津観音寺の境内に普化鐘楼を建て、この慰霊の鐘を奉献した。韓国十三の市・道の土を集め、韓国の瓦と木材、そして韓国式丹青で真心を込めて建てたこの鐘楼は玄界灘を越えて今この場所に立っている。あのむごたらしく暗い歴史は、あの日の悲鳴と共に埋められてしまい、魂はそのままにされてきた。しかし、ここ観音寺の二代に亘る住職が慰霊の塔婆を立て、また多くの市民グループが自国の恥部を掘り起こす作業をすることにより、失われた歴史は再び明らかにされたのだ。いわゆる「朝鮮人襲撃」の噂の虚構性も、記録するのをはばかられる狂気の真相も、半世紀が過ぎて再び世の中に姿を現した。
しかし、現代の韓国人はその暗い歴史を憎しみはしても、今日の日本や日本人を咎めたくはない。むしろ歴史を正視し、その歴史の前に謙虚な日本の友人にありがたいとさえ思う。
独立四十周年、韓日国交正常化二十周年である今年、この小さな鐘を捧げながら私たち現代の韓国人は感慨無量である。この習志野の野原の静かなこだまが総ての韓国人と日本人の胸に刻まれ、お互いに熱く手を取り合う震源になることを願いたい。この鐘の音を共に聴きながら六十三年前の悲しい歴史をも共に想い、その多くの犠牲者の痛みをも共に分かち合い、今日の韓日の相互理解と相互尊重を共に誓おう。一九八五年 九月一日
関東大震災 韓国人犠牲者
慰霊の鐘 建立委員会
この鐘楼は『工芸学会通信』10に紹介されていました。
鐘楼は、丹青が施された骨組みの上に高麗瓦をのせた韓国式の建物で、様式は百済様式とのこと。
「丹青」とは、青、赤、黄、白、黒の五色を配して、木造や石造の建造物、陵墓の壁面、工芸品などに文様や絵を施すことをいい、高句麗時代に始まり、百済、新羅へと伝わり、現代まで続いている。(中略)鐘楼は一度つくったものを解体して運んだ。大工、瓦、丹青の三人がいっしょに来日し、現地に六日間で組み立てた。沈雨晟氏によれば、建築物をつくるために工人が日本に渡来したのは、千年ぶりではないかのこと。(中略)日韓の長い歴史的関係を思い起こさせる、伝統的な様式による建築物は、いま新しく、そこにあることによって現代史の証言者になったといえる。
(『工芸学会通信』No.41 p.3)
現在、鐘は高いところに吊られていますが、元々は韓国式にもっと低い位置に吊られていたそうです。上が危なくなってきて日本の業者に吊り直してもらったら、高くなっちゃったとのことですが、それでも鳴らすとかなり長い時間響き続けます。
1990年に建立された
「関東大震災韓国人犠牲者慰霊詩塔」
そして1999年に建立された
「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」
この地域に残る日記に朝鮮人を引き取って殺す様が生々しく記録されています。
『いわれなく殺された人びと : 関東大震災と朝鮮人』から一部のみ抜粋します。
大正十二年九月
一日 西区のA方で将棋をやる。正午大地震起る。何回となく続いて来る。午后二時頃帰宅、豚が子を産で居たので見てやる。変わりなし。
昼飯を食って又Aへ行って将棋をやる。地震の為火災起り紙片木片の飛び来るもの数多。或は横浜と云ひ或は東京と云ひ少しも解らない。警察の電話に依ると横浜市の由で有る。
二日 昨夜、Aで将棋をやったので昼頃迄寝て仕舞ふ。又Aで将棋をやる。
三日 (前略)夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役場より通知あり。在郷軍人団青年団やる。七日 (前略)午后四時頃、バラックから鮮人を呉れるから取りに来いと知らせが有ったとて急に集合させ、主望者に受取りに行って貰う事にした。(中略)夜中に鮮人十五人貰ひ各区に配当し(中略)と共同して三人引受、お寺の庭に置き番をして居る。
八日 (前略)又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰って来る。都合五人(中略)へ穴を掘り座せて首を切ることに決定。(中略)穴の中に入れて埋めて仕舞ふ。皆疲れたらしく皆其処此処に寝て居る。夜になると又各持場の警戒線に付く。
九日 (前略)夜又全部出動十二時過ぎ又鮮人一人貰って来たと知らせ有る。之れは直に前の側に穴を掘って有るので連れて行って提灯の明りで、切る。(中略)
(『いわれなく殺された人びと : 関東大震災と朝鮮人』p.6〜8)
地震のあった1日や2日はのんびり将棋を指している感じですが、3日に役場から連絡があってから緊張感が増します。
そして7日から9日にかけて6人の朝鮮人を引き取り、虐殺しています。
この虐殺現場は高津観音寺から歩いて5分ほどのところにあります。
1965年頃から地域の方々がこの場所に塔婆を立てて慰霊祭をおこなっていたそうです。
案内してくださった平形さんもメンバーである、千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会が長年調査をする中でこの地域の調査も進み、調査活動をまとめた『いわれなく殺された人びと : 関東大震災と朝鮮人』を発行した1983年からは高津区、観音寺、調査実行委員会の三者共催の慰霊祭が続けられ、長い時間をかけて地域の人たちと話し合い、1998年にこの場所で6体(前述の日記の記録と一致)の遺骨を発掘。翌年「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」を観音寺に建立して、その後はこの碑の前で慰霊祭が続いているとのことです。
「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」の裏にはこの碑の「いわれ」が刻まれていません。調査実行委員会の方々が碑文の案を何度か修正しながら地域の方々と話し合いをしたそうですが、結局合意が得られなかったそうです。
萱田山長福寺 google mapでこの辺
お寺を入って、お墓の一番奥の方へ3つのお墓が並んだ区画があります。
この一番道路側に
「震災異国人犠牲者 至心供養塔」
この地区でも収容所まで朝鮮人を受け取りに行き、3人の朝鮮人が犠牲になっています。
遺体は共同墓地(もみよ墓地)の隅に埋められていたとのこと。
1983年に住宅開発のために共同墓地がこの長福寺へ移転するとき、遺骨の発掘・改葬がおこなわれ、合わせてこの「至心供養塔」が建てられました。
(ちなみに「もみよ墓地」のあった場所は調べきれませんでした。)
中台(なかだい)墓地 google mapでこの辺
ここには
「無縁供養塔」
碑には何も書かれていませんが、
ここも収容所へ朝鮮人を受け取りに行って虐殺した場所の一つです。
今回のフィールドワークはここがゴールでした。
普段は友人とのんびり将棋を指して、産まれた子豚の様子を見に行くような「普通」の人が、
軍隊から「取りに来い」と言われて引き取った朝鮮人を殺してしまう。
でも、その後地域でひっそりと慰霊を続けたりもしている。
この差は何なのか?
差別が根っこにあるんだとは思いますが、それで人殺しまでできちゃうのか?
このメカニズムを知らないと、自分がそんなことしないと言い切れるのかちょっと不安です(言い切りたいところですが)。
それと、このフィールドワークシリーズ で案内していただいた全ての場所に、その土地で地道に調査を続けている方々がいました。おかげで私たちは労せずに色々なことを知ることができてとてもありがたいことなんですが、こういった調査結果を次の世代に残すためには地域の活動では限界があるような気もします。本来は国が自国の歴史としてちゃんと集約・活用(本当は調査も)しないといけないはずです。。。が、それは現状夢のまた夢。うーむ。
参考)
千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会が結成される前の調査結果がまとめた『関東大震災と朝鮮人 : 船橋市とその周辺で』11という資料集も国会図書館で個人送信になってますので、国会図書館の登録をしている方は家で読むことができます。
更新履歴
2023年6月24日 新規作成
2023年6月25日 誤記修正(高津厩舎→高津廠舎)
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記
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「情報(5)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050970300、大正12年 公文備考 巻155 変災災害(防衛省防衛研究所) https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C08050970300 ↩︎
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『現代史資料』第6,みすず書房,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館限定) https://dl.ndl.go.jp/pid/2990288 ↩︎
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千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会 編『いわれなく殺された人びと : 関東大震災と朝鮮人』,青木書店,1983.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12231568 ↩︎
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吉河光貞 著『関東大震災の治安回顧』,法務府特別審査局,1949.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3453424 ↩︎
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船橋市魅力発信サイトFUNABASHI Style「船橋・地名の由来」https://www.city.funabashi.lg.jp/funabashistyle/jp/001/p043039.html ↩︎
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船橋市「過去の住居表示による住所の変更一覧」https://www.city.funabashi.lg.jp/machi/juutaku/002/p031029.html ↩︎
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船橋市郷土資料館 編『船橋のアルバム : 写真で見る船橋の変遷』,船橋市,1997.3,国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/000004222264 ↩︎
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船橋市『船橋市全図』,船橋市,1951,国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/000009119098 ↩︎
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田中 正敬『関東大震災と習志野・船橋–朝鮮人虐殺事件の解明・追悼はいかになされたか(4)船橋における関東大震災朝鮮人虐殺と在日朝鮮人による追悼運動について–船橋における追悼碑建立と追悼式についての聞き取り』,川崎 : 専修大学歴史学会,専修史学(48) 2010.3,NDL雑誌記事索引 https://id.ndl.go.jp/bib/10627987 ↩︎
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工芸学会 編『工芸学会通信』,1985.10 No.41,国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/000000039545 ↩︎
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歴史教育者協議会船橋支部 [ほか]共編『関東大震災と朝鮮人 : 船橋市とその周辺で』,千葉県自治体問題研究所船橋支所設立準備会,1978.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12229321 ↩︎