虐殺100年の現在地ー中国人虐殺現場を歩く
2023年6月24日訪問
「ヒロシマ講座」虐殺100年の現在地〜歩いて考える関東大震災 フィールドワークの6回目
林伯耀さん、関東大震災時虐殺された中国人労働者を追悼する集い実行委員会の川見一仁さんに案内していただきました。
午前中に事前学習してから現場へ。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
まず最初に向かったのは横網町公園
幽冥鐘 google mapでこの辺
この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。
また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。
その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海、横浜経由で大正14(1925)年11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。
この鐘を安置する鐘楼は、昭和5(1930)年8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。
この説明には全く触れられていない中国人の虐殺が今日のテーマです。
横網町公園から江東区大島へ向かいました。
ここからは当日訪問した順番ではなく、時系列に沿って紹介していきます。
まずは関連地図から
「1922年測図1926年発行」の地図の方は以下4枚の地図を組み合わせています。
いずれも震災(1923年)直前の1922年に測図されたものです。
『龜戸 南葛飾郡吾嬬町・亀戸町・大島町・東京市本所區・深川區』1(1922年10月測図1925年11月拡張道路補描)
『小松川 南葛飾郡大島町・亀戸町・小松川町・吾嬬町』2(1922年11月測図)
『大島 南葛飾郡大島町・砂町・東京市深川區』3(1922年10月測図1925年11月羅漢道及電鉄補描)
『大島東部 南葛飾郡小松川町・大島町・砂町』4(1922年10月測図)
1923年発行の『南葛飾郡誌』5に1922年5月時点での工場分布図(下の地図、赤枠は上の地図の範囲)が出てるんですが、この辺りにはたくさん工場があったことがわかります。
そしてここでは多くの中国人労働者が働いていました。
1920年から第一次世界大戦後の戦後恐慌が始まっている中で、日本人労働者よりも2〜3割割安の賃金6で働く中国人労働者が増えており、日本人労働者との軋轢が強まっていました。
1922年9月には中国人労働者を支援するために僑日共済会が設立され、当時の大島町3丁目278番地に事務所が置かれました。
(地図上の位置は、番地から1931年発行の『東京府南葛飾郡小松川町・龜戸町・大島町全圖 番地界入』7(再掲図青点線枠部分)で特定しました。)
そして1923年9月1日に関東大震災が発生します。
9月3日、中国人労働者が各宿舎から大島8丁目の広場に集められ虐殺されました。
唯一生き残った黄子連さんの証言によれば
私ハ民国十一年五月日本二渡リ労働二従事シ同郷三百余人卜共二日本五丁目林合記二寓居シテ居リマシタ偶々十二年九月一日大地震二遭ヒ二日同郷者百七十四人卜共二八丁目林合吉棧に移転シマシタカ三日正午頃突然日本人数百人力鉄棒、棍棒、斧刀等ヲ携ヘテ林合吉棧二押シ寄セテ來マシテ同郷者ヲ悉ク屋外荒地二逐出シテ乱打乱殺シ私(黄)モ右耳辺二刀傷ヲ受ケテ多数ノ屍体ノ間二倒レタノテ死ヲ装フテヰマシタ此ノ間百七十三人ハ悉ク惨殺セラレマシタカ日本人ハ各屍体カラ金銭ヲ悉ク奪ヒ取り私モ持ツテヰタ三十余円ヲ奪取セラレマシタ 七時頃群集カ退散シマシタノテ私ハ屍骸ヲ掻キ分ケテ起キ上り花園内二潜伏シ日中ハ蓮ノ葉テ体ヲ隠シテ居マシタ四日夜七丁目マテ参リマスト翌朝七時頃再ヒ日本人ノ為メニ捉ヘラレテ乱打セラレマシタカ幸二日本ノ警察ノ保護テ小松川警察署二送ラレ更二葉岸ニ送ラレマシタ約一個月同所二抑留セラレテヰマシテ十月五日罹災者同胞九百余人卜共二本国二送還セラレルコトニナリ無事上海に着キマシタ
上海カラハ温州同郷会テ郷里迄帰ヘル世話ヲシテ下サイマシタ<変災及救済関係雑件 別冊 関東地方震火災之件
支、鮮人ノ被害及救済二関スル件 第四巻>(『史料集 関東大震災下の中国人虐殺事件』8p.344)
後ほど紹介する外務省の資料にも約300名の労働者が殺された、という記述があります。
この虐殺現場は先ほどの地図の「大島町集団虐殺現場」です。
現在の江東区東大島文化センターあたりです。
虐殺事件のことを示すものは何もありません。
この日、道路沿いの植木に花を供えて黙祷した時の様子が共同通信の記事として配信されていました。
47ニュース「無念さ一緒に考えて」 中国人虐殺の現場案内、東京(2023年6月24日)
同じ9月3日、宿舎前の路上に連れ出されて集団虐殺された場所もありました。
麻一族を中心とする23人の中国人が虐殺された現場が当時の大島6丁目633番地9(632番地という資料8もあり)。
(地図上の位置は番地から1931年発行の『東京府南葛飾郡小松川町・龜戸町・大島町全圖 番地界入』7(再掲図青点線枠部分)で特定しました。)
現在は中の橋商店街になっている一角です。
ここにも虐殺事件のことを示すものは何もありません。
9月9日、僑日共済会会長の王希天さんが大島町の労働者の様子を見にやってきます。
そして
九月十日、王希天ノ市外大島町ヲ徘徊スルヤ、龜戸警察署ハ萬一ノ危險ヲ虞リ、一時同署ニ収容保護ヲ加ヘ、十二日早朝之ヲ習志野救護所ニ送致セントシ、同方面警備ノ任ニ當レル軍隊ニ交附シタルニ、同軍隊係員ハ、王ガ普通支那人勞動者ト擧措ヲ異ニセルノミナラズ、日本語相當ノ教育アルヲ見テ、習志野ニ送致スルノ必要ナシト認メタル折柄、彼モ亦其寓所タル早稲田ニ歸還セラレン事ヲ促シテ已マズ、是ニ於テ軍隊ハ其希望ヲ容レテ放還シタルニ、遂ニ寓所ニ歸ラズシテ行衞不明トナレルナリ。
『大正大震火災誌』10p.535
つまり、王希天さんを「亀戸警察が拘束し、その後軍隊に引き渡して解放した後、行方不明」というのが日本政府公式見解。
ところが、50年以上経過した1975年8月28日毎日新聞夕刊に『「王希天事件」真相に手掛かり』という記事が出ます。
記事に「一兵士の日記公開」とありますが、これは震災時に野戦重砲兵第一連隊第六中隊の一等兵だった久保野茂次さんの日記のことです。中にはこんな記述があります。
十月十九日 晴
今日の新聞にも前途有為な社会事業に尽瘁の王希天君が出ていた。その真相については、逐一、或る者より聞いた。中隊長初めとして、王希天君を誘い、「お前の国の同胞が騒でるから、訓戒をあたえてくれ」と云うてつれだし、逆井橋の処の鉄橋の処にさしかかりしに、待機していた垣内中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぷくでもと休み、背より肩にかけ切りかけた。そして彼の顔面及手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。そして殺したことは将校間に秘密にしてあり、殺害の歩哨にさせられた兵により逐一聞いた。
右の如きことは不法な行為だが、同権利に支配されている日本人でない、外交上不利のため余は黙している。(『関東大震災と朝鮮人虐殺』11p.19)
十一月二十八日 雨
午後中隊長殿の講話。全国皆兵、兵制、詔書、最後に震災の際、兵隊が沢山の鮮人を殺害したそのことにつきては、夢にも一切語ってはならないと、かたくことわられた。それについては、中隊長殿が殺せし支那人に有名なるものあるので、非常に恐れて、兵隊の口をとめてると一同は察した。(『関東大震災と朝鮮人虐殺』11p.20)
そしてこの日記が公開されるに至った経緯が、千葉のフィールドワーク の時に紹介した『いわれなく殺された人びと』に出ていました。
日頃筆者と親しくしている久保野さんは、ある日突然、関東大震災当時の日記を私に見せ、
「私はこの日記を今まで誰にも見せず、大切に保管してきた。この日記には震災当時、王希天という前途有望な青年が陸軍の将校の手によって殺害されたことが書いてある。私も年をとり何時どうなるか判らない体なので、ぜひとも王希天の家族にこのことを知らせてほしい」と話された。(『いわれなく殺された人びと』12p.84)
当時、野戦重砲兵第三旅団司令部が置かれていた東洋モスリンの場所と王希天さんが殺された逆井橋の位置は次の地図の通り。
現在、野戦重砲兵第三旅団司令部の跡には何の跡形もなく
逆井橋は、その下で釣りやカヌーの練習をしている人たちがいるような静かな場所です。
そしてここにも事件のことを示すものは何もありません。
ここまでに紹介してきた中国人の虐殺と王希天さんの殺害を日本政府は徹底的に隠すんですが、外務省の記録の中にその隠蔽方針が垣間見えるものがあります。中央防災会議の報告書『1923 関東大震災【第2編】』13で外務省の記録を引用して説明している部分がありますので、外務省文書の本物(引用元は後述)と合わせて見てみましょう。
この事件に関しては、外務省記録にも関係文書がある。このうち、現在、国立公文書館アジア歴史資料センターによってインターネット上で画像が公開されている「大島町事件其他支那人殺傷事件」の綴(レファレンスコードB04013322800)は、外務省内で回覧され大臣、次官をはじめとする関係者の花押が記された文書群である。その冒頭に収録された坪上(貞二)書記官「支那人ニ関スル報道 九月六日警視庁広瀬外事課長直話」には、「九月三日大島町七丁目ニ於テ鮮人放火嫌疑ニ関連シテ、支那人及朝鮮人三百名乃至四百名三回ニ亘リ銃殺又ハ撲殺セラレタリ」とある。
(中央防災会議報告書『1923 関東大震災【第2編】』p.209)
また、9月21日、亜細亜局「支那人王希天行衛不明ノ件」によれば、「本所大島町付近ニ於テ約三百名ノ支那労働者殺害セラレタル事実ハ、九月十六日、警視総監ノ出渕局長ニ言明(正力官房主事熱心ニ之ヲ裏書セリ)セル所」、と警視庁が外交問題となり得る中国人労働者大量殺害事件としてこの事件を外務省に伝えていたことがわかる。
(中央防災会議報告書『1923 関東大震災【第2編】』p.210)
そして、11月8日、亜細亜局出淵(勝次)局長口述とある亜細亜局作成の「王希天問題及大島町事件善後策決定ノ顛末」では「(十一月)七日閣議散会後、内務大臣ヨリ本件ニ付キ相談シ度シトテ外務、司法、陸軍各大臣ノ集合ヲ求メ、四大臣鳩首協議中偶々総理大臣モ参加シテ本件ヲ議シタルガ、結局本件ハ諸般ノ関係上之ヲ徹底的ニ隠蔽スルノ外ナシト決定」したと記録されている。政府首脳は、事件被害者を中国人と理解しながら、公式にはそれを認めないことを決定したのである。
(中央防災会議報告書『1923 関東大震災【第2編】』p.210)
さて、現代。
この虐殺に関連して、国会で質問主意書が何度か出されています。
例えば
2016年の第190回国会(参議院)で田城正昭議員が提出した質問主意書「関東大震災時の朝鮮人、中国人等虐殺事件に関する質問主意書」14
政府は、関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したことを事実として認定するか。
この質問に対する当時の安倍首相による答弁書は
お尋ねの「関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したこと」については、調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することができる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である。
これを踏まえて
2017年の第193回国会(参議院)で有田芳生議員が提出した質問主意書「関東大震災時に起こった朝鮮人、中国人等虐殺事件への日本政府の関与に関する質問主意書」15
(前略)
内閣総理大臣を会長とする中央防災会議の専門調査会が作成した、「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成二十年三月 一九二三関東大震災報告書【第二編】」(以下「報告書」とする)には、朝鮮人虐殺に日本政府が関与したことを記した記述があります。
そこで、報告書の記述をふまえて、以下質問します。(以下略)
これに対する当時の安倍首相による答弁書は
御指摘の「報告書」は、有識者が執筆したものであり、その記述の逐一について政府としてお答えすることは困難である。
はぁ?
という回答なんですが、政府の答弁ってずーっとこんな感じなんです。
つい最近では2023年5月23日に参議院内閣委員会で杉尾秀哉議員が国会質問をしたんですが、議事録16を見ると、杉尾議員が何を聞いても、
政府といたしまして調査した限りでは、政府内に事実関係を把握することができる記録が見当たらなかったことから、仮に御指摘の資料を確認しても、その内容を評価することは困難であるというふうに考えているところでございまして、御理解いただければと考えております。(楠芳伸 警察庁長官官房長)
各府省に確認をいたして、その結果に基づきまして、政府内に事実関係を把握することができる記録が見当たらなかったということで、そのように御答弁を申し上げているところでございます。(楠芳伸 警察庁長官官房長)
既に政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらなかったものであり、御指摘のような対応を取ることは困難であることを御理解願いたいと思います。(谷公一 国家公安委員会委員長)
政府内で事実関係を把握することができる記録が見当たらなかったということでございまして、更なる調査ということは考えていないところであります。(谷公一 国家公安委員会委員長)
はぁ??
「記録が見当たらない」ってどの口が言うとるんじゃ。。。って口をむぎゅーっとしてやりたいですが、できない。。。しょうがない、どうやって記録にたどり着くのか教えてあげるから、これまでの答弁書書いたお役人さんや、楠さんや谷さん、よーっく見ててね(ま、見てないだろうけど)。
中央防災会議の報告書『1923 関東大震災【第2編】』p.209には
現在、国立公文書館アジア歴史資料センターによってインターネット上で画像が公開されている「大島町事件其他支那人殺傷事件」の綴(レファレンスコードB04013322800)
って書いてあるじゃないですか。これ、答えが書いてある試験みたいなもんですよ。。。
以下3ステップ、時間は1分かかりません。
(1)国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページを開く
https://www.jacar.go.jp/
(2)下のようなページが開くので、検索窓(赤枠のところ)にレファレンスコード B04013322800 を入れて虫眼鏡のところをクリック
(3)そのものズバリが検索結果に表示されるので「閲覧」ボタン(赤枠のところ)をクリック
はい、表示されました。
これ、外務省の記録文書です。先に『1923 関東大震災【第2編】』の文章と合わせて紹介している画像はこうやって開いたものです。
私はこれまで中国人虐殺と朝鮮人虐殺の差を意識したことがありませんでした。
大島での虐殺では、中国人を狙って計画的に殺しています。林さんは「中国人労働者の計画的な集団殲滅」と指摘されていますが、まさにそのようなことだったようです。
当時、朝鮮半島は日本の植民地でしたが、中国との関係では国際問題になるため、日本政府は必死で隠蔽し続け、今もなお認めていません。今回訪れた虐殺現場にも事件を示すものは何もありませんでした。ただ、地元で地道に研究を続けた方の努力で明らかになってきたこともあります。まだまだ知らないことだらけですが、このことを知った人間としてどうするか?ですねぇ。
なお、ここまでに引用した資料以外に以下の文書も参考になります。
今井清一(1976)「大島町事件・王希天事件と日本政府の対応」論集現代史17p.169
今井清一(1993)「関東大震災下の中国人虐殺事件が明らかにされるまで : 資料の所在・発掘および調査の経過と二三の問題点」湘南国際女子短期大学紀要1巻18
仁木ふみ子(1982)「五九年目の墓碑銘 関東大震災時の中国人虐殺の鉄証」月刊総評29919
今井清一『関東大震災と中国人虐殺事件』20
田原洋『関東大震災と中国人 : 王希天事件を追跡する (岩波現代文庫. 社会 ; 272)』21
仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺 : 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』22
仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺 (岩波ブックレット ; no.217)』23
更新履歴
2023年7月10日 新規作成
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記
-
都市計畫東京地方委員會, 内務省復興局 [作]『龜戸 南葛飾郡吾嬬町・亀戸町・大島町・東京市本所區・深川區』,遠藤市次,1926.10,NDLデジタルコレクション(国立国会図書館内限定) https://id.ndl.go.jp/bib/000009205116 ↩︎
-
都市計畫東京地方委員會 [作]『小松川 南葛飾郡大島町・亀戸町・小松川町・吾嬬町』,遠藤市次,1926.10,NDLデジタルコレクション(国立国会図書館内限定) https://id.ndl.go.jp/bib/000009205117 ↩︎
-
都市計畫東京地方委員會, 内務省復興局 [作]『大島 南葛飾郡大島町・砂町・東京市深川區』,遠藤市次,1926.10,NDLデジタルコレクション(国立国会図書館内限定) https://id.ndl.go.jp/bib/000009205122 ↩︎
-
都市計畫東京地方委員會 [作]『大島東部 南葛飾郡小松川町・大島町・砂町』,遠藤市次,1926.10,NDLデジタルコレクション(国立国会図書館内限定) https://id.ndl.go.jp/bib/000009205123 ↩︎
-
東京府南葛飾郡 編『南葛飾郡誌』(南葛飾郡教育会蔵版 南葛飾郡役所大正12年刊の複製限定版),崙書房,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9640222 ↩︎
-
阿部康久(1999)『1920年代の東京府における中国人労働者の就業構造と居住分化』人文地理 第51巻第1号 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/51/1/51_1_23/_article/-char/ja (p.32) ↩︎
-
小林編纂部 實測『東京府南葛飾郡小松川町・龜戸町・大島町全圖 番地界入』,[川流堂] 小林又七,1931.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8312053 ↩︎ ↩︎
-
今井清一 監修 仁木ふみ子 編『関東大震災下の中国人虐殺事件 : 史料集』,明石書店,2008.10,国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/000009816797 ↩︎ ↩︎
-
小笠原 強, 宮川 英一(2019) 関東大震災時の中国人虐殺資料を読む(5)中央研究院近代史研究所所蔵『日本震災惨殺華僑案』第四冊,専修史学(67):2019.11 https://id.ndl.go.jp/bib/030311739 ↩︎
-
『大正大震火災誌』,警視庁,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1748933 ↩︎
-
関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会 編『関東大震災と朝鮮人虐殺 : 歴史の真実』,現代史出版会,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12229346 ↩︎ ↩︎
-
千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会 編『いわれなく殺された人びと : 関東大震災と朝鮮人』,青木書店,1983.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12231568 ↩︎
-
中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会HP 『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成21年3月 1923 関東大震災【第2編】』 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html ↩︎
-
参議院HP 第190回国会 質問主意書提出番号131 https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/190/meisai/m190131.htm ↩︎
-
参議院HP 第193回国会 質問主意書提出番号91 https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/193/meisai/m193091.htm ↩︎
-
国会会議録検索システム 第211回国会 参議院 内閣委員会 第15号 令和5年5月23日 https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=121114889X01520230523¤t=4 ↩︎
-
藤原彰, 松尾尊兌 編『論集現代史』,筑摩書房,1976. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12231110 ↩︎
-
多摩大学学術情報リポジトリ「関東大震災下の中国人虐殺事件が明らかにされるまで : 資料の所在・発掘および調査の経過と二三の問題点」 https://tama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=685&item_no=1&page_id=32&block_id=88 ↩︎
-
日本労働組合総評議会 編『月刊総評』(299),日本労働組合総評議会,1982-11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2226763 ↩︎
-
今井清一 著『関東大震災と中国人虐殺事件』,朔北社,2020.1,国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/030185207 ↩︎
-
田原洋 著『関東大震災と中国人 : 王希天事件を追跡する』,岩波書店,2014.8,国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/025599907 ↩︎
-
仁木ふみ子 著『震災下の中国人虐殺 : 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』,青木書店,1993.8,国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/000002272328 ↩︎
-
仁木ふみ子 著『関東大震災中国人大虐殺』,岩波書店,1991.9,国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/000002134852 ↩︎