虐殺100年の現在地ー「福田村事件」を歩く
2023年10月14日訪問
「ヒロシマ講座」虐殺100年の現在地〜歩いて考える関東大震災 フィールドワーク
今回は「福田村事件」の現場を『福田村事件』(五月書房新社)
著者の辻野弥生さん、福田村事件を記録する旧田中村・民の会の松丸健二さんに案内していただきました。
現場近くの福田公民館でお二人のお話を聞いてから現場へ。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
今回は中川五郎
さんが参加されており、
この「福田村事件」を歌った『1923年福田村の虐殺』を生演奏してくださいました。
「福田村事件」のことが歌われる25分の歌には心揺さぶられます。
聴いてみたい方には、この曲が入ったCDがあります。
『どうぞ裸になって下さい』(コスモスレコーズ/CMCA 4007~8/2017年)
ライブCD2枚組で、プロモーション画像はこちら(youtube)
私はこの日ご本人から購入しましたが、このCDとても好きです。
「福田村事件」がどんな事件なのか、については辻野さんの『福田村事件』
を読んでください。
最低限の情報としてこの本から少しだけ引用させてもらうと。。。
1923年9月1日に関東大震災が発生します。
震災発生から五日後の九月六日、利根川と鬼怒川が合流する千葉県東葛飾郡福田村大字三ツ堀(現在の野田市三ツ堀)で、四国の香川から薬の行商に来ていた一行十五名が地元民に襲われ、九人が命を落とした。この事件には隣村の田中村(現在の柏市内)の人間も関与しているので、正確には「福田村・田中村事件」と呼ぶべきだろう。殺された者のなかには、六歳と四歳と二歳の子ども、それに妊婦も含まれており、胎児を含めると、被害者は十人ということになる。
加害者側の地元民たちは、讃岐弁を話す行商人一行に対し「お前らの言葉はどうも変だ、朝鮮人ではないか」と、いいがかりをつけ、行商用の鑑札を持っていたにもかかわらず、暴行、殺害に及んだ。(『福田村事件』「はじめに」より)
現場付近の地図を見てみましょう。
事件当時に一番時代が近そうな地図として見つけることができたのが、
明治13年(1880年)から明治19年(1886年)にかけて陸軍の参謀本部が作成した「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」1
この中で今回の現場が含まれるのは「千葉縣下總國東葛飾郡山崎驛近傍村落」
。
この迅速測図と現在の地図を比較できるすごいサイトがありまして、
農研機構の「歴史的農業環境閲覧システム」
今回これを利用させてもらいました。
関東大震災(1923年)の40年くらい前の地図です。
福田村は1889年の町村制移行で周辺の村が合併してできますので、この地図の時代にはまだありません。
三ツ堀香取神社 google mapでこの辺
行商人一行15人が休憩していたのがこの辺り。
香取神社の境内に6人、
神社前の店の腰掛けのところへ9人(1人は妊婦)がいました。
こちらではリーダーが船頭と渡し船の条件交渉をしていましたが、
船頭が「お前らの言葉はどうも変だ、朝鮮人ではないか」と言い始め、近くにあった梵鐘をついたために村民が集結。虐殺が始まります。
結局こちら側で休んでいた9人(胎児も入れれば10人)が殺されます。
殺された人の年齢構成は胎児、2歳、4歳、6歳、18歳、23歳、24歳、26歳、29歳(2人)
ここから少し離れたところに
三ツ堀の渡し跡 google mapでこの辺
明治時代の地図を見ると現在「水神宮」があるこの辺りに渡し場があったようです。
第一軍管区地方2万分1迅速測図原図「千葉縣下總國東葛飾郡山崎驛近傍村落」
に渡船場の様子が描かれています。
この渡船場の様子が描かれてから約40年後の1923年、
『関東大震災の治安回顧』2(「東葛飾郡福田村に於ける騒擾」)によれば
鮮人に對する恐怖と憎惡の念に駆られて平静を失った群衆は、最早右辯解に耳を傾ける遑もなく、或は荒縄で縛り上げ、或は鳶口、棍棒を振って殴打暴行し、遂には「利根川に投込んで仕舞へ」と怒號し、香取神社から北方約二丁の距離にある三つ堀渡船場に連れて行き、右行商團員九名を利根川の水中へ投込み、内八名を溺死せしめたが、他の一名が泳いて利根川を横切り對岸に遁れんとするや、群衆中より船で追跡するものが現はれ、對岸で之を惨殺し、
(『関東大震災の治安回顧』 p.83)
現在の河岸はもう少し先にあります。
隣の田中村は現在の柏市ですが、『柏市史』近代編3にもこの事件の記述が少しだけあります。
当地域において悲劇が生じたのは九月六日のことである。その事情は次の通りである。
福田村ニ於イテモ十五人ノ鮮人入リ来ルヲ認メ種々調査シ検見スルニ言語不明ニテ野田分署ヨリ部長来リタル時已ニ八人ヲ殺害シタルニ依リ其八人は福田村ノ人ニテ殺シタリ、他ノ一人ハ利根川ヲ流レテ茨城県下ノ対岸ニ渉リタルヲ、田中村ノ人船ニ乗リ福田村三堀下ヨリ出発シ其一人ヲ殺シタルモノ
(『柏市史』近代編 p.423)
そしてこの事件に関わって田中村がどのような対応をしたか?
田中村の四人、福田村の四人、計八人が逮捕された。田中村は同年一〇月二日に村会議員・各区長・各団体長を招集し、この事件への対処方法を協議する。会議においては、隣村まで追い掛けていったことを問題にする意見も強く、弁護料として出すことはできないが、「役場に於てか又は公共団体の如き団長より命令の元に行動したるならば止むを得ざる故」と、小金町の場合を参照して四人に対し三五〇円の見舞金を戸数割りによって徴収し、支給することとなった(平川善仁家文書五、『萬朝報』大正一三年五月一日)。
(『柏市史』近代編 p.424)
8人が逮捕され、実刑判決を受けますが、その後、大正天皇死去による恩赦で全員釈放されます。
田中村があった『柏市史』を紹介しましたが、福田村があった『野田市史』については、辻野さんが「この事件について明記してほしい」という要望書を送付し、『野田市史』資料編 近現代 24に福田村関係資料が掲載されているそうです。
2003年9月
福田村事件 追悼慰霊碑 google mapでこの辺
が建立されます。
圓福寺の大利根霊園内にあります。
私有地ですので、看板にあるとおり事務所に声をかけて入ります。
写真撮影も許可が必要です。
この碑が建立されるまでの様々な人々の努力は辻野さんの『福田村事件』に書かれています。
私はこのフィールドワークの翌日に映画「福田村事件」
を見に行きました。
フィールドワークで訪れた場所が映画の虐殺シーンと重なりました。
映画では虐殺の最初の一手に、個人的事情の伏線がありましたが、実は個人的な伏線がなくても虐殺は起きたのではないか?という気もします。
なぜそんな気がするのか、
集団が一つの目的のためにお祭りのように"盛り上がった"とき、個人の事情なんかなくても集団の「敵」に襲いかかる。。。って、根拠はないんですが「ありそう」。
でも、正直わからない面もあります。
「なぜ"殺す"ところまでいってしまったのか?」
いくら流言蜚語を真実だと信じていたとしても、自分たちが直接何か被害を受けたわけでもないのに。。。「なぜ"殺す"ところまでいってしまったのか?」
「人を殺す」って人生最大級の大変な行為だと思うんですが、それができてしまうってどういうことなんでしょう?
実は私にもそのスイッチがどこかにあるんだとすると、とても怖いことです。
このスイッチを入れないためにどうすればいいのか?
そして、中川五郎さんの歌詞にありますが『おまえたちがしたことは、謝ってすむことじゃない』
ところが、現実は謝るどころか、
『止むを得ざる故』
つまり「しょうがなかった」で済まされています。そして100年経ってしまいました。
「しょうがない」というのは起きたことの原因追及・償いなどなどを諦めることです。
絶対に「しょうがなく」ないです。
先ほどのスイッチを入れないためには、まず「しょうがない」で諦めないことだと思います。
更新履歴
2023年10月18日 新規作成
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記
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吉河光貞 著『関東大震災の治安回顧』,法務府特別審査局,1949.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3453424 ↩︎
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柏市史編さん委員会 編『柏市史』近代編,柏市教育委員会,2000.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9644957 ↩︎
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野田市史編さん委員会 編『野田市史』資料編 近現代 2,野田市,2019.2 国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/030395804 ↩︎