虐殺100年の現在地ー「横浜の虐殺現場」を歩く(1回目)

「ヒロシマ講座」虐殺100年の現在地〜歩いて考える関東大震災 フィールドワーク
今回は横浜の虐殺現場を、関東大震災朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会の山本すみ子さんらに案内していただきました。
まずは神奈川県民センターでお話を聞いてから現場へ。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。

今回はそれぞれの場所での証言をたどります。
まず、現在の地図で今回訪れた場所をプロットしておきます。

(現在)[今昔マップ on the web](https://ktgis.net/kjmapw/index.html)より作成
(現在)今昔マップ on the webより作成

この地図の左下にある横浜駅近く「現:神奈川県民センター」を出発して
高島山公園  google mapでこの辺
地図だと分かりにくいんですが、ここ山です。
「CS立体図」という地形表現で高低差をわかりやすくすると

(現在)[ひなたGIS](https://hgis.pref.miyazaki.lg.jp/hinata/)利用(全国CS立体図_10m)
(現在)ひなたGIS利用(全国CS立体図_10m)

「現:高島山公園」の場所は神奈川県民センターから急斜面を登った先というのがわかります。
実際、急な階段を登っていきました。

高台で景色の良い公園です。ここから見下ろした辺りでしょうか

この高島山下の草地に避難した八木熊次郎さんの証言があります。

九月二日
(中略)
コノ日午後、吾々ガ陣取ッテイル草原ニ巡査ガ駆ッテ来テ、皆サン一寸御注意ヲ申マス。今夜、此方面ヘ不逞鮮人ガ三百名襲来スルコトニナッテ居ルソウデアル。
(中略)
猶、十六歳以上、六十歳以下ノ男子ハ武装シテ警戒シテ下サイ。
(中略)
午後四時過ギ、向ウノ山上デ喚声ガ起ッタ。一同ガ振リ向イテ見ルト、白服ヲ着タ者ガ幾十人カ抜剣シテ沢山ナ人ヲ追カケテイル。基ヲ見タ者ハ異口同音ニ不逞鮮人襲来ダ、白服ノハ日本ノ青年団ダト騒グ。
(中略)
夜ノ十時過頃カラ各方面デ銃声ト喚声ガ聞エ始メタ、提灯ノ火ガ幾ツトナク野原ヲ飛ンデイル。折々、武装シタ青年ノ伝令ガ駆ッテ来テ「御注意ヲ願イマス。只今、怪シイモノガ数十名此方面ヘ這入ッタ形跡ガアリマス。」等ト入替リ立チ替リ報告シテ来ル。此夜、鮮人十七八名、反町遊郭ノ裏デ惨殺サレタ。
(後略)

(『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』1p.270)

この証言に「反町遊郭」の裏で17,8名が惨殺されたとありますが、この「反町遊郭」は現在の反町公園あたりにありました。
反町公園  google mapでこの辺


昭和初期に作成された横浜市三千分一地形図が横浜市ホームページで公開されています2。この中の昭和初期 25番「神奈川」(発行は1931年)で現在の反町公園の範囲をざっくり囲ってみました。
(現在)[今昔マップ on the web](https://ktgis.net/kjmapw/index.html)より作成
(現在)今昔マップ on the webより作成
(1931年)[横浜市三千分一地形図画像](https://www.city.yokohama.lg.jp/business/bunyabetsu/kenchiku/toshikeikaku/yoko/sankou/showashoki_20-39.html)より作成
(1931年)横浜市三千分一地形図画像より作成

1937年発行『大日本職業別明細図』3「神奈川県」には「反町遊郭」という表示があります。
この地図上でも無理やり現在の反町公園の範囲と思われる場所を囲ってみると
遊郭の一部が今の「反町公園」の一部になっているようです。
(1937年)『大日本職業別明細図』より作成
(1937年)『大日本職業別明細図』より作成
(1937年)反町遊郭部分拡大
(1937年)反町遊郭部分拡大

遊郭表側の「大門」はこの図の「菊屋」(今も残る鰻屋さん)の辺りにあったようですので、
証言にある『反町遊郭ノ裏』というのはその反対側です。

また、
『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』1に入っている「鮮高秘収第22号(大12・11・21)震災に伴う朝鮮人並に支那人に関する犯罪及び保護状況其他調査の件」という史料(p.9)の「内地人ノ朝鮮人ニ対シテ行ヒタル殺傷事件調 神奈川県」(p.43)という表には

<犯罪ノ日時及場所>
九月二日午后一時頃市内青木町字反町六八一先
<犯罪事実>
前記ノ如ク鮮人犯行ノ風評喧伝セラレ民衆不安ト恐怖トニ因リ警戒中偶々空地方面ヨリ犯行鮮人ノ如ク民衆ニ追跡セラレツツアルヲ犯所ニ於テ之ヲ捕ヘ犯行アル鮮人トシテ激昂ノ余リ殺害シタルモノノ如シ

(『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』1p.57)

として、被害者男性3名という記録があります。
この「反町六八一」という番地の場所は、1923年発行『大正調査番地入横浜市全図』4に出ていました。(ただこの地図には当時既にあったはずの東横線の線路が書いてなかったりして、相当省略されてる気がしますので、あまり正確ではないかも)
下の図は、見やすくするために元の図を回転させ、無理やり現在の反町公園の範囲と思われる場所を囲っています。

(1923年)『大正調査番地入横浜市全図』より作成
(1923年)『大正調査番地入横浜市全図』より作成

場所も時間も被害者数も先の八木熊次郎さんの証言とは異なる様に思え、同じ事件を指しているのか否かは不明です。

もう一つ「二ツ谷橋」にも地図上で印をつけておきました。
二ツ谷橋  google mapでこの辺
滝の川にかかる橋ですが、川が暗渠になったためにこんな形。
写真で奥の方へのびる遊歩道の下が川です。


この二ツ谷橋では、角田三郎さんからの聞き取り結果があります。

ここでの虐殺は、角田さんのお兄さんが目撃している。朝鮮人が虐殺され、首に縄を巻かれ、橋の欄干に吊るされていたこと、二十人位虐殺されていたことを目撃している。

(『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』1p.274)

場所を変えて
幸ヶ谷公園  google mapでこの辺


冒頭にも出したCS立体図で高島山の右側(東側)にある山です。
(現在)[ひなたGIS](https://hgis.pref.miyazaki.lg.jp/hinata/)利用(全国CS立体図_10m)
(現在)ひなたGIS利用(全国CS立体図_10m)

『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』1に入っている「神奈川方面警備部隊法務部日誌」(p.107)という史料に

十月四日 木曜 晴
一、横浜市青木町栗田谷岩崎山鮮人虐殺ノ跡ヲ視察シタリ
(中略)
十月五日
(中略)
二、陸軍法務官鈴木忠純ハ憲兵長植木鎮夫ト共ニ横浜市青木町栗田谷岩崎山ニ至リ再ヒ鮮人虐殺ノ跡ヲ視察シ憲兵長ト種々打合ヲ為シタリ
(後略)

(『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』1p.123)

という記録が残っています。
「岩崎山」という場所で虐殺が起こったことが分かりますが、犠牲者数などは分かりません。
この「岩崎山」という地名は俗称で、今の幸ヶ谷公園辺りの山を指すそうです。
『関東大震災 横浜市震災誌』5にこんな記述があります。

字幸ヶ谷竝に字栗田谷の一部
 兩字は一帯の丘陵地で、幸ヶ谷は三百十戸、栗田谷の一部は俗に岩崎山と稱へられ、戸數三十戸、人口合せて一千三百二十を有してゐた。(中略)岩崎邸の建築半の大建物と長さ四十間の煉瓦塀とが倒れた。

(『関東大震災 横浜市震災誌』第2冊 p.172)

この辺りの字名は幸ヶ谷なんですが、一部栗田谷だったようです。そしてそこにあった「岩崎邸」。
『刊広社住宅地図 横浜市 昭和57年』6を見ると、確かに岩崎駐車場とか、岩崎さんの家がありました。(下の地図中央付近「岩崎邸?」の辺り。今はマンション)
ここで、現在と1931年の地図を並べておきます。

(現在)[今昔マップ on the web](https://ktgis.net/kjmapw/index.html)より作成
(現在)今昔マップ on the webより作成
(1931年)[横浜市三千分一地形図画像](https://www.city.yokohama.lg.jp/business/bunyabetsu/kenchiku/toshikeikaku/yoko/sankou/showashoki_20-39.html)より作成
(1931年)横浜市三千分一地形図画像より作成

次に
東神奈川公園  google mapでこの辺


吉野作造の「朝鮮人虐殺事件」7に朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いた話として、「御殿町附近で四十余名」という記述があります。
長い間詳細がわからなかったそうなのですが、山本すみ子さん達が、虐殺を免れた朝鮮人名簿の中で御殿町に住んでいた人たち(15名)がほとんど同じ住所「御殿町813」であることを見つけ、詳細が見えてきます。
「御殿町813」には明治39年(1906年)まで小学校があり、その一部が現在の東神奈川公園になっています。小学校移転後の校舎には人が住んでいたという証言があり、虐殺を免れた人たちの住所がここであることを考えると、元校舎に多くの朝鮮人が住んでいた可能性があるようです。そうすると「御殿町附近で四十余名」の犠牲者はその方々なのかもしれません。

同じく、吉野作造の「朝鮮人虐殺事件」7には「神奈川県橋本町浅野造船所前広場で四十八名」という記述もあります。
浅野造船所というのはこれまでに何度か出している地図の真ん中右側「現:国交省 横浜港湾空港技術調査事務所」のすぐ下。

(1931年)[横浜市三千分一地形図画像](https://www.city.yokohama.lg.jp/business/bunyabetsu/kenchiku/toshikeikaku/yoko/sankou/showashoki_20-39.html)より作成
(1931年)横浜市三千分一地形図画像より作成

該当部分を拡大します。
そして、1935年に浅野造船所が出版した『我社の生立』8に出ていた平面図と合わせて見ると、
正門前広場というのは図の赤丸付近で、そこには内務省の機械工場があります。
(1931年)[横浜市三千分一地形図画像](https://www.city.yokohama.lg.jp/business/bunyabetsu/kenchiku/toshikeikaku/yoko/sankou/showashoki_20-39.html)より作成
(1931年)横浜市三千分一地形図画像より作成
『我社の生立』第三圖「株式会社浅野造船所 船渠平面略圖」
『我社の生立』第三圖「株式会社浅野造船所 船渠平面略圖」

先ほども書いた通り、ここは現在
国土交通省 横浜港湾空港技術調査事務所  google mapでこの辺

1929年発行 内務省横浜土木出張所『横浜港震害復旧工事報告』9の「震災救護事務日誌」には

九月十四日
(前略)
警察署員無断ニテ工場構内ニテ鮮人屍体ヲ燒カントセルニ付制止シタル旨機械工場ヨリ報告
(後略)

(『横浜港震害復旧工事報告』p.121)

という記述があり、ここに遺体があったのは確かなようです。
また
『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』1に入っている「鮮高秘収第22号(大12・11・21)震災に伴う朝鮮人並に支那人に関する犯罪及び保護状況其他調査の件」という史料(p.9)の「内地人ノ朝鮮人ニ対シテ行ヒタル殺傷事件調 神奈川県」(p.43)という表には

<犯罪ノ日時及場所>
何レモ九月二日午后二時頃市内橋本町二ノ一先埋立地及約二町ヲ距テタル仝市宝町一ノ二先埋立地内ニ四ヶ所ニ散在シテ位置ス
<被害者 住所>
何レモ市内橋本町二ノ一先鮮人人夫部屋居住
仝市宝町一ノ二人夫部屋居住ト推測セラル
<被害者 職業>
何レモ横浜港内内務省経営船渠工事ノ人夫ト推測セラル
<被害者 男女別 氏名年齢>
何レモ男
何レモ
氏名年齢不詳
鮮人ト認メラルゝ者被害者数
四二名

(『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』1p.59)

さらに『関東大震災 横浜市震災誌』5に掲載されている斉藤新次さんの手記「鮮人を保護して竹槍の中を」より

當時山の内町の埋立地と、浅野船渠との中間に造凾船渠を建造すべく、百餘名の鮮人人夫と共に、その掘鑿に餘念なかつた私は、締切結壊に依る奔流と、地面の亀裂とに極度の脅威を感じつつ、兎に角夫々避難を完うしました。
(中略)
 その次の日の出来事でした。
 何せあの大袈裟な朝鮮人騒ぎ、「そんな馬鹿な」とは思ひ乍らも、矢張り尠からず恐怖に襲はれて居りました。
 放火・強盗・毒薬・追ふ人・追はれる人、まさに劔戟の巷です。ふと自分達の使つて居た忠實な鮮人達に思ひ及んだ私は、或る不吉な豫想に、思はずぞつとしてしまひました。
 「何」つていふ目的ではなかつた様です。慌しく行き交ふ人々の間を、山の内町へと出かけた私は、豫め豫期した恐ろしい幾多の事件に打つ突かりました。

(『関東大震災 横浜市震災誌』第5冊 p.550)

これらから、殺された方達は「山の内町の埋立地と、浅野船渠との中間に造凾船渠を建造すべく」働いていた人たちだと思われます。
この方々が建造した造凾船渠は現在でも残っています。
京浜港ドック  google mapでこの辺


ここは土木学会選奨土木遺産に認定されています。
東京新聞の2023年10月18日付記事「土木遺産 横浜・京浜港ドック 埋もれた歴史 朝鮮人労働者 悲劇の跡 関東大震災後「虐殺」標的に」 もあります。

どんな工事だったか?は内務省土木局の『直轄工事年報』に記載がありました。
「横浜港修築工事」として次のような記述になっています。(大正13,14年度もほぼ同じ記述)
ただ、私にはイマイチどんな工事なのか想像できないんですが。。。

山内町地先埋立ノ一部ヲ變更シ浅野造船所トノ間隔約七十八米五ノ水面ヲ存置シ以テ埋立地艀荷役ノ便ヲ計ラントス但シ該水面タルヤ地盤ノ関係上潜凾製造工場用地トシテ他ニ求ムルヲ得ザル好適ノ箇所ナルヲ以テ本修築工事施工中ハ假ニ其一部ヲ埋築シ存置水面ヲ卅五米ニ止メントス

(『直轄工事年報』大正11年度 p.230)

また、附録図面10 11 12でこの場所を時間に沿って並べてみると、現在の京浜港ドックの場所(矢印が指しているところ)が、だんだん形になっていく様子がわかります。

『直轄工事年報 附録図面』より作成
『直轄工事年報 附録図面』より作成

現役バリバリだったと思われる頃の写真が昭和9年(1934年)発行『横浜港と其修築』13にありました。
『横浜港と其修築』p.100
『横浜港と其修築』p.100
『横浜港と其修築』p.101
『横浜港と其修築』p.101

さて、横浜フィールドワークの第1回はここまで。
私は残念ながら近く予定されている第2回には参加できません。
なお、今回巡った現地の写真を見てもらうとわかるんですが、ぱっと見ではただ公園を巡っただけです。。。
碑や説明板があるわけでもなく、完璧に日常に埋もれてしまっています。
そして、資料や証言からそこで何かがあったのは確かなんですが、具体的なところがモヤっとしています。
当時の政府が"ちゃんと"調査・記録しなかったことが悔やまれます。
。。。悔やまれますが、記録がないわけではありません。
最近出版された『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』1に限らず、資料・証言はたくさんあります。
ところが日本政府の態度は「政府内で事実関係を把握できる記録が見当たらない」
本サイトでもすでに書いたことあるので(虐殺100年の現在地ー中国人虐殺現場を歩く )繰り返しませんが、寝言は寝てからにしてほしいもんです。


おまけ

時代は一気に現代に近づき、1972年のお話。
今回巡った場所の近くにあるのが
村雨橋  google mapでこの辺



「戦車闘争」。。。割と最近映画にもなっています。
映画「戦車闘争」
映画「続戦車闘争」
1972年、市民が戦車を止めたのがここ村雨橋。

これまでのフィールドワークレポートはこちら

更新履歴

2023年11月13日 新規作成


  1. 姜徳相 山本すみ子 共編『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』,三一書房,2023.9. https://31shobo.com/2023/07/23004/ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  2. 横浜市HP「横浜市三千分一地形図」で昭和初期、昭和30年代の『横浜市三千分一地形図』をPDFファイルでダウンロード可能。 ↩︎

  3. 東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション(本文中で引用しているのはコマ番号232の一部) https://dl.ndl.go.jp/pid/8311839 ↩︎

  4. 松信太郎(著・発行)大正調査番地入横浜市全図 1923年(大正12)発行(岐阜県図書館詳細検索で「対象資料」を『地図画像』としてタイトルを入れて検索するとネット上で閲覧可能) ↩︎

  5. 横浜市HP「震災の記録を読む」で『関東大震災 横浜市震災誌』の第1冊〜第5冊までPDFファイルでダウンロード可能。 ↩︎ ↩︎

  6. 刊広社『神奈川区 1982 (住宅地図横浜市)』,1982 国立国会図書館蔵書 https://id.ndl.go.jp/bib/000003558412 ↩︎

  7. 姜徳相、琴秉洞編 編『関東大震災と朝鮮人【普及版】現代史資料』,みすず書房,2023.8. https://www.msz.co.jp/book/detail/09638/ (犠牲者数はp.360より) ↩︎ ↩︎

  8. 『我社の生立』,浅野造船所,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1106094 ↩︎

  9. 内務省横浜土木出張所 編『横浜港震害復旧工事報告』,内務省横浜土木出張所,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1466510 ↩︎

  10. 内務省土木局 編『直轄工事年報』大正11年度 附録図面,内務省土木局,大正13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/975800 ↩︎

  11. 内務省土木局 編『直轄工事年報』大正13年度 附録図面,内務省土木局,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/975802 ↩︎

  12. 内務省土木局 [編]『直轄工事年報』大正14年度 附録圖面,内務省土木局,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1015281 ↩︎

  13. 内務省横浜土木出張所 [編]『横浜港と其修築』,内務省横浜土木出張所,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1235770 ↩︎