茨城県・内原 青少年義勇軍訓練所跡
2024年7月20日
ヒロシマ講座(竹内良男さん主催)で企画されたフィールドワークに参加してきました。
このサイトでは毎度のことですが、
自分の備忘のための関連資料へのリンクなどで整理しています。
帰ってきてから自分で調べたことも含みますので、
内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
今回は別の日(5月11日)に訪問した時の写真も混ざってます。
「満蒙開拓青少年義勇軍」についてここで細かい説明はできないので、ネットでも読むことができる参考資料を最後にいくつかご紹介します。
昭和13年(1938年)1月の「満蒙開拓青少年義勇軍募集要項」(『満蒙開拓青少年義勇軍関係資料 第4巻 第3編』1p.3)
一、趣旨
我日本青少年を大陸の新天地に進出せしめ満蒙の沃野を心身練磨の大道場として日満を貫く雄大なる皇國精神を鍛錬淘冶し、満蒙開拓の中堅たらしめ以て両帝國の國策遂行に貢献せしめんとす。
(中略)
四、応募資格
算へ年十六歳(早生れは十五歳)より十九歳迄の身体強健、意志強固なる者(昭和13年1月「満蒙開拓青少年義勇軍募集要項」)
そして
「あなたも義勇軍になれます」2という拓務省が出版した子ども向けのパンフレットがあります。
ちなみにこの文と絵を描いたのは田河水泡さん。
ここに出てくる茨城県内原が、今回訪れた場所です。
まずは内原駅のすぐ近く
地蔵院 google mapでこの辺
ここにあるのが、満蒙開拓殉職者之碑と聖母観音
我等は若き義勇軍
祖国の為ぞ 鍬とりて
万里涯なき 野に立たむ
今開拓の 意気高し
平和と勤労を愛し不毛の荒野を拓き五族協和の理想のもとに楽土建設を夢見て大陸に渡り理想の夢が花開くかに見えた矢先のあの大悲劇の中に巻き込まれた満蒙開拓民二十七万有余名の内殉難された八万有余柱の為に昭和二十一年元義勇軍発祥の地、ここ内原町東光山地蔵院に碑文を元内原訓練所々長加藤完治先生、当時財団法人開拓民援護会により建立される。
苦しくもこの納骨室には義勇軍拓士で無事に内地上陸するも故郷へ帰山出来ず、我が内原拓友会が懸命の「ふるさと探し」も可なわなかった十七柱の実骨と帰山された分骨を合せ三十四柱が安置合祀されております。
どうか全国の今は亡き拓友よ 我が国の平和と繁栄は諸兄の犠牲が礎です。
殉難霊位の御冥福を祈願いたします。合掌
昭和五十八年十一月 義勇軍内原拓友会建立
聖母観音建立之由来
満洲開拓は王道楽土を理想とする世紀の国策大事業であったと同時に終戦による満洲開拓の終焉も歴史上まれに見る悲惨な様相を呈した。其の中に十四、五才のいたいけな満蒙開拓青少年義勇隊があった。
望郷に泣く少年、殺伐になり勝な訓練生のよき姉母とし慈母の如き精神力を持つ寮母があった。一七六名、内殉死する者二十有余名、其の霊を祀ると共に再びかかる悲しみのおこることなき平和な世界の実現をこの観音像に托して建立するものである。
昭和四十六年四月吉日
满洲寮母会有志
聖母観音は東京の拓魂公苑 にあったものだそうです。
水戸市 内原郷土史義勇軍資料館 google mapでこの辺
水戸市教育委員会HP「水戸市内原郷土史義勇軍資料館のご案内」
訪れたのは企画展「漫画「満蒙開拓青少年義勇軍」の世界」の初日でした。
満蒙開拓青少年義勇軍の元隊員である細井芳男さんが描いた漫画集「土の戦士 ああ‼満蒙開拓青少年義勇軍」の全ページが展示されています。
関口慶久 館長、細井芳男さんの息子さんである細井博充さんにご案内いただきました。
資料館が2003年に開館して以来初の企画展なんだそうです。
漫画は「内原版」「満洲版」に分かれていて、
「内原版」そして「満洲版」の108ページまでは厳しくも楽しい日々が描かれているのに対して、
その次のページからは『召集』そして8月9日、8月15日で唐突に終わります。
細井芳男さんはその後、「ソ連交戦編」「シベリア抑留編」を執筆していたものの、
ある日執筆中の原稿を泣きながら破り捨ててその後描くことはなかったそうです。
ソ連交戦とシベリア抑留の話は息子の博充さんが聞いた話として展示されていました。
資料館の常設展示の方は開館以来変わっていないそうですが、
侵略の側面には触れられていませんので、展示内容に加えて自分で勉強する必要がありそうです。
例えばこの動画だと、「満蒙開拓」「満蒙開拓青少年義勇軍」の解説もあります。
Youtube ~平和について考えてみませんか?~紙芝居「義勇軍物語」
日本農業実践学園 google mapでこの辺
日本農業実践学園 HP
1927年(昭和2年)に開校した日本国民高等学校(初代校長加藤完治)をルーツとする学校です。
ここから先は籾山旭太 学園長にご案内いただきました。
これから巡っていく場所をまず地図で確認します。
四角く囲っているのが日本農業実践学園、かつての日本国民高等学校です。
(ちなみに「幹部訓練所」は別の日に訪問)
満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所之碑 google mapでこの辺
満蒙開拓青少年義勇軍は昭和十二年十一月三日時の内閣に提出された「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」が同月三十日閣議の決定するところにより創設された。
これに先立ち、この地内原に満洲移住協会並びに日本国民高等学校協会によって内原訓練所の建設が進められ、同十三年一月より義勇軍募集要項による内地訓練が開始されるに至った。
国策として発足した満蒙開拓青少年義勇軍は、満洲大陸に理想郷を建設せんとの熱意に燃える青少年たちであった。
義勇軍は、訓練所長加藤完治の訓育を受け、三百余棟の簡素な日輪兵舎に起臥し、心身の鍛練を経て、勇躍満蒙の曠野に赴いたのである、その数八万六千五百三十名。
内原は、義勇軍の心のふるさとである。
網領は次のとおりであった。一、 我等義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲーツニシテ追進シ 身ヲ満洲建国ノ聖業二棒ゲ 神明二誓ッテ天皇陛下ノ大御心二副ヒ奉ランコトヲ期ス
一、 我等義勇軍ハ 身ヲ以テー徳一心 民族協和ノ理想ヲ実践シ、道義世界建設ノ礎石タランコトヲ期ス
義勇軍は大陸の厳しい風雪に耐え、ひたすら理想の村づくりに邁進した。しかるに昭和二十年八月、祖国の敗戦によりそのすべてが鳥有に帰した。
以来三十年の歳月が流れた。われわれは、志半ばに倒れた同志の遺志を偲び、義勇軍創設の趣旨を録し、永く後世への記念とする。ここに内原会並に関係各位の協力を得て、その鴻志を刻み同志の碑とする。昭和五十年五月三日
満蒙開拓青少年義勇軍訓練所之碑建立委員会
委員長 那須皓
全国拓友協議会
ここは元訓練所の正門近くに位置するそうですが、
訓練所がどれほどの規模だったのか?を知るために。。。
『加藤完治全集 第5巻』3にあった、訓練所が現役だった頃の航空写真(撮影年不明)と
『茨城県の近代化遺産 : 茨城県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』4に出ていた「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所旧態、現況概要図」を航空写真の向きに合わせたものを並べてみました。
「内原訓練所の碑」って書いてあるところが先に紹介した碑のある場所です。
それから、戦後すぐ(1947年)の航空写真と現在の航空写真
どうですかねぇ、イメージ湧くでしょうか?
ところで現役の頃の航空写真では丸いぽちぽちがいっぱい見えていて、
1947年の航空写真ではほとんどなくなっているんですが、これが「日輪兵舎」です。
復元したものが水戸市 内原郷土史義勇軍資料館にあります。
当時の雑誌(『新建築』1940年6月号5)に掲載された写真を見ると、
この「日輪兵舎」がずらっと建ち並んでいた様子がわかります。
“短期間で簡単に"造ることができる、ということで
『開拓』1941年4月号6には「日輪兵舎の造り方」なんて記事もありました。
昨秋十一月中旬から本年一月中旬まで内原訓練所に於て全國中堅農家を主體とする一萬五千名の農業増産報國推進隊が食糧増産に必要なる訓練を行つて夫々歸郷し村人に働きかけた現れとして、最近内原訓練所建築課へ日輪兵舎の造り方に關する問ひ合わせが山積してゐる状態なので、今回本誌を通じてお知らせ致します。
(『開拓』1941年4月号6 p.100)
後でも紹介する新聞記者の体験記事(1944年1月)があるんですが、
日輪兵舎は火の氣もなく隙間から刺す風が首筋を毛立たせる、床にもぐり込んでもなかなか温まらない
(朝日新聞1944年1月6日夕刊2面「正月もふつとばし 凍る溝に敢闘 内原に戦ふ鍬の精兵」)
夏は暑くて冬は寒い、とても快適とは言い難い建物のように思えます。
この内原訓練所と内原駅までの道路は「渡満道路」と呼ばれ、一部が残っています。
渡満道路と桜並木
昭和十三年(一九三八)早春、ここ内原に満蒙開拓青少年義勇軍(略称=義勇軍)の訓練所が建設されました。
当時この一帯は松林で覆われていて道は狭く、訓練所入り口近くには道も無く、入所した義勇軍訓練生が訓練所から内原駅迄の一・七キロメートルを整備し、記念に桜の苗木を植えました。
桜花は日本人の心の花、義勇軍の門章や帽章も桜の花を象ったものでした。今でもここに残る桜は、この時に植えたもので、訓練所は無くなっても巡り来る春ごとに美しい花を咲かせています。
内原で二・三ヶ月の訓練を終えた義勇軍の人達は、訓練所で盛大に行われた渡満壮行式のあと、真新しい服にリュックを背負って鍬の柄を携え、列を正してラッパ鼓隊の先導でこの道を通り、大陸に夢を馳せながら内原駅に向かいました。昭和十三年から二十年(一九四五)までに、この道を通って満州に渡った訓練生は八万六千五百三十人を数えました。
このことから訓練所から内原駅までの道路を「渡満道路」と呼ぶようになったのでした。当時の訓練生は、今でも寄宿した日輪兵舎とこの桜並木を忘れたことはありません。
渡満道路は、植栽後七十有余年が過ぎ、当時を語るものとしては唯一残されている桜並木であり、義勇軍の歴史また桜の名所として保存されています。水戸市教育委員会
ここの説明で抜けているのは、この道を通って満洲へ渡った86,530人の子供たちのうち、2万4千人以上が帰ってこられなかった(上笙一郎『満蒙開拓青少年義勇軍』7p.178)という点でしょうか。
本法寺別院 google mapでこの辺
満蒙開拓青少年義勇軍
五族協和、王道楽土、満州国建設の大志を抱いて民族を越え戦争のないすばらしい村づくりを夢に海を渡った青少年の数八万六千五百三十名「丈夫で仲よく迷わずに」の教訓を旨として鍬の柄を肩に勇壮なるラッパ鼓隊に送られて渡満!鳴呼!戦争という極限の中で昭和二十年八月九日未明そのすべては壊滅、多数の青少年が大志半ばにして満州の地に沒したる惨、言葉もなし爾来四十有余年の星霜が流れ彼らの前に香を手向ける人もなく一輪の花もなし!鳴呼!且て彼らの農事訓練の場として河和田の此の地、百町歩余こそは己々の心に忘るゝ事の出来ぬ農業の尊厳さを刻み込まれたであろうに、今この因縁深き地の本法寺の境内に彼らの勇気を永久に称へると共に散った多くの同志の霊を慰むるため生残りたる我等相寄り諮りて拓魂碑を建立し後世に傳へるものなり平成三年八月八日
池田節朗
建立委員会
縁起文
「極楽世界」は、元満洲開拓青少年義勇軍をはじめ満洲開拓関係殉難者の御霊を祀る納骨墓所として中国黒龍江省哈爾濱市郊外に建立した「日本人公墓」を、日中国際事情や現地人民への心情的配慮から改称、改建して現地に二〇〇二年春まで立てられていたものです。
その後「極楽世界」の名が中国墓園環境に馴染まないことと、また、当墓所の永久供養を維持する目的により中国様式の新名称を刻した石碑に立て替えて現地で維持管理されることになりました。
この経過をうけて、これまでの「日本人公墓」「極楽世界」の石碑は日本国内に持ち帰ることができました。現状では叶えられない遺骨帰還になぞらえて鄭重にこれを迎え入れ満洲開拓発祥の地、内原訓練所河和田分所跡地の本院に安置できたことにより、史実保存とともに犠牲者の永遠なる鎮魂供養の場にふさわしい霊域の顕現を希うものです。二〇〇三年四月吉日
極楽世界世話人
武具池 google mapでこの辺
まず読み方ですが、
『角川日本地名大辞典 8 茨城県』8によれば「ぶんぐいけ」です。
内原町史などによると、昔は「豊後池」と呼ばれていたみたいです。
大平豊後守館跡 杉崎
杉崎西方の丘陵台地にあり、その背後の池は豊後池(武具池)と呼ばれている(『東茨城郡誌』)。この丘陵は北西につづく深い山林となる。東・南・西側は一段と低い水田地帯となり、自然の防御策となる。大地に土堤が築かれ、一段と高い塚からの見張りは絶好の地であった。古老の伝えに古屋敷と呼んでいたところもあり、大平豊後守の居館もあったことは地形その他によって知ることができる。今は耕地に整理され、館跡の痕跡すらなくなっている。この高台の南側は豊後池(武具池)より流れ出る用水路があり、桜川にそそいでいる。広大な水田地帯の水源として重要な用水地である。山間より水田が開かれ、大部良(大平)と呼んでいるところから、この付近一帯が大平氏によって開発された地域と思われる。この水田地帯の西方丘陵山地に墓石が散財している。五輪塔が崩れ落ちた形跡から、大平豊後守一族の墓ではなかろうか。英雄墓はこけむしぬの感がひとしおの地域である。(『内原町史 通史編』9 p.329)
ここで引用されている『東茨城郡誌』も見ときましょう。
下中妻の二舘址
下中妻村大字杉崎西方の高䑓にありて、大平豊後守の居城なりしといふ、背後の池は今豊後池と稱し、本村第一の灌漑溜池として遺徳大なり、小林舘址は大字小林にあり、小林彌次郎なる者此に住し、其後江戸氏の臣藤枝勘解由住せりと傳ふ、今此地に藤枝を姓とするものあり。(『東茨城郡誌』10(昭和2年に刊行されたものの復刊) p.1657)
どちらにも書いてありますけど、武具池はこの地域の重要な灌漑用のため池です。
この武具池の改修工事にも内原訓練所の子供達が関わっています。
『茨城県土地改良事業60年誌』11 p.304によれば、
工事前の武具池は溜池面積 6.6ヘクタール、貯水量 55,300立方メートル、灌漑面積 62ヘクタールでしたが、
1944年の工事後には溜池面積 22ヘクタール、貯水量 750,000立方メートル、灌漑面積 220ヘクタールと大きく拡大します。
地図で見ても、池が拡大しているのがわかります。
この工事・・・
最大の難問は作業に要する労力の確保で、地元だけでは工事の短期完了は望むべくもなかった。このため江幡村長と村会議員一二名は義勇軍訓練所に加藤所長を訪ね、事情を話し協力を求めたのであった。
その結果、毎日義勇軍二〇〇〇名が出動することになり、土砂運搬用具の準備は地元で行うことになった。武具池改修工事の起工式は、昭和十八年十二月八日に行われ、式終了と同時に一〇〇名の義勇軍によって作業は開始され、現場の指揮は議員最年少の大和田正が当たり、関係住民も字毎に交代で出役したのであった。(『内原町史 通史編』9 p.1028)
武具池改修工事最大の難関は、池の南端を締め切る築提工事であった。強大な水圧に耐えるような提塘を築くには地底深く掘り下げて岩盤に到達し、その上に粘土ハガネを投入することが必要であったが、めざす岩盤はなかなか現れず、十二月三十一日の深夜にようやく岩盤を掘り当て、関係者は歓声をあげ喜んだという。この間、徹夜で湧水の汲出しに当たった村民の苦労もたいへんであった。
(『内原町史 通史編』9 p.1028)
当時の作業の様子を撮影した写真が『写真集 満蒙開拓青少年義勇軍』12にありました。
小さく写っている人間や小屋と比較すると、工事の大規模さがわかります。
この作業を体験した新聞記者の記事もありました。
真冬の大変な作業の様子がわかります。
漸くまどろみかけたころ拍子木の音に気づくと、土の精鋭はもう地下足袋に巻脚絆をつけてゐる、時計は三時半、外は眞暗である、記者も遅れじと床を蹴つて隊員の後から舎外に出た、あちこちから凜々たる号令が響いてくる、隊列は堂々と動き出し北へ四キロ、東茨城郡下中妻村杉崎にある貯水池ー武具池の擴張工事場に進▪️する、鍬、スコップ、鶴嘴などを肩にしてざくざく霜柱を踏み碎きながら「鍬の進軍」の歌が勇壮に響きわたつてゆく、和尚塚から山道にさしかゝつたがまだ薄暗で班長の懐中電燈をたよりにつまづきさうな山坂を進み、工事場へ辿りついたのが四時半である
各所に焚火があがつて、隊員は暖をとる間も無くどんどん溝のなかへはいつてゆく、溝の両側にはつららが無数にさがつてゐる溝の中の氷に足を食ひ込ませたときその冷たさは頭の先まで傳はつた、さても夜明前の寒さのきついことよ
記者は二、三分で意氣地なくも焚火へ駆け戻つたが、隊員たちはその水のなかで岩盤へ鶴嘴を打ち込み、スコップですくひ出す作業を整然と進めてゆく、白みはじめたときに浮び出て來た隊員の影像は眞に逞しいものであつた、どの隊員のズボンもばりばりに凍つてゐる、足はゆでだこのやうに眞つ赤になつてゐる、だが黙々と土と岩に戦を挑むのみである、記者は自らを恥ぢてモッコ擔ぎの中に加はつたが、十回と運ばぬうちに肩が痛くて耐へきれなくなり、残念ながら落伍者となつた、隊員は始終黙々と敢闘しつゞけること六時間にして十時に漸く新たな部隊と交代した、かうした作業は夜となく昼となく交代しては續けられる、(朝日新聞1944年1月6日夕刊2面「正月もふつとばし 凍る溝に敢闘 内原に戦ふ鍬の精兵」)
▪️は読み取れなかった部分
工事は1943年12月8日に始まり、1944年6月に完成します。
工事中に犠牲者も出ています。
奈良県出身の義勇軍、中川清一中隊長のほか二一六名が内原訓練所に入所したのは、昭和十九年三月十五日であった。(中略)四月三日は晴れて一〇時の気温は一二度、風もなく良い日和りであった。中川中隊はこの日笠間に行軍し、その帰り和尚塚から武具池の工事現場に行き、昼食後作業奉仕を申出で、堤防の西の山裾で土砂を採取し運搬する作業をはじめたのである。ところが一時二〇分ごろ突然前日の雨でゆるんでいた地盤が崩れ、第三小隊の六名が生埋めになる事故が発生し、四名は直ぐ教助されたが、小隊長西本清蔵(奈良県郡山市出身、一六蔵)、訓練生谷村基州(もとくに)(奈良県生駒市出身、一五歳)の二人は遺体で発見されたのであった。
(『内原町史 通史編』9 p.1030)
この2人の殉難碑が下中妻外五個村耕地整理組合と武具池受益農民一同によって昭和26年(1951年)1月31日に建立されました。
満蒙開拓青少年義勇軍訓練生谷村基州君、西本清蔵君之墓誌銘
我等ハ身ヲ以テー徳一心民族協和ノ理想ヲ実践シ道義世界建設ノ礎石タラン勇壮ナル理念二燃エ内原訓練所二入所シ以テ満洲建国開発ノ事業ニー身ヲ棒ゲ猛訓練二余念ナシ時恰も世界戦争酣ニシテ国内食糧ハ急ヲ告ゲ訓練所長加藤完治先生ニハ挙国食糧増産指導ノ衡二当リ多忙ヲ極ムル時土地改良ノ資源用水池ノ拡張二先鞭ヲ着ケ、自ラ訓練生ヲ率イテ貯水池ノ築提工事ニカヲ尽シ大貯水池ノ完成ヲ遂ゲタリ然レドモ昭和十九年四月三日奈良中隊ノ作業中俄然土砂崩壊シ両君ハ不幸埋没セラレ人事ヲ尽シ救助二務メタルモ遂二他界セラル村民一同痛惜二堪へズ谷村基州君ハ奈良県生駒郡北倭村産西本清蔵君ハ同県郡山市産夙二満蒙開拓二雄図ヲ抱キ渡満ヲ目睫ニシテ哀レ武具池畔ノ露ト消エ可憐ナル二少年ノ心情ヲ追憶シ墓誌ヲ勒シテ後世二伝フ
下中妻村外五個村耕地整理組合長 江幡又左衛門 撰文
昭和二十六年一月三十一日
2人の犠牲者のうち西本清蔵さんについては、
今回のフィールドワーク参加者の方が少し前に奈良で偶然お墓を見つけた(!)、という鳥肌ものの奇跡的な出来事もあり、寮美千子さんによる毎日新聞の連載でも紹介されました。
毎日新聞 ならまち暮らし 「満蒙開拓義勇軍の少年」(有料記事)
なお、殉難碑の近くに小さな祠もあったのですが
おそらく、この祠だと思われます。
昭和九年三月の改修を記念した小さな祠が今も堤防の西の端近くに建てられている。
(『内原町史 通史編』9 p.1027)
<おまけ>
7月20日のフィールドワーク当日には時間の関係で行けなかったのですが、
別の日に訪れた場所があります。
満蒙開拓幹部訓練所 事務棟・講義棟 google mapでこの辺
満蒙開拓幹部訓練所は、昭和14(1939)年2月1日、(財)満州移住協会によって、鯉淵村中台の地に開設された、満蒙開拓青少年義勇軍や満蒙開拓団の幹部養成機関である。数地面積は107.7ヘクタール、建物棟数は105棟という大規模なものであった。
昭和17(1942)年12月1日には訓練所と併設して、満蒙開拓指導員養成所が開設した。両施設は、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所長の加藤完治が所長を兼務し、満蒙開拓をリードする人材の養成が推進された。
昭和20(1945)年8月15日の終戦まで、延べ4,400人を超える人々が、この地で農学や満州政策の理念など、幅広い知識や技術を学んだ。
事務棟・講義棟は、訓練所のシンボルであった大講堂の両脇に建てられた建物である。規模、外観はほぼ同じで、明治以降の学校建築の形式を踏襲している。一方、中央通路上部に換気の為と思われる小屋根を設けている点は珍しい。
国内において、満蒙開拓関係の現存建造物は数少ない。こうした中、事務棟・講義棟は、日本の対満州政策や、アジア・太平洋戦争下の農業政策の様相を後世に伝える貴重な文化財である。
『新建築』1940年6月号5に掲載された写真があります。
中央の大講堂(とんがり屋根)は米軍機の空襲目標にされることを恐れた加藤完治所長の意向で終戦直前に取り壊されたそうですが(『茨城県の近代化遺産』4 p.67)、その両脇の建物はそのまま残っています。
そして大講堂の基礎石も残っています。
以上でフィールドワークのレポートは終了です。
今回、あえて各所の碑文や説明文を引用したのですが、これら全てに欠けているものがあると思ったんです。うまいこと言葉にできずモヤモヤとしていたんですが、あるインタビュー記事を読んでとても納得したので、紹介します。
『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書)7を書いた上笙一郎さんのインタビュー記事です。
恐らく本を出版した直後のインタビュー(1973年4月9日朝日新聞朝刊)から
「関係者が今おしなべて強調するのは自分たちは<五族協和>を信じ、純粋な気持で行なったのだ、この気持はくんでくれということ。義勇軍に参加した子どもたちにはすまないことをしたという言葉は聞かれても、中国に対する申しわけなさを語る人はほとんどいなかった」
だから上さんは「児童史といっても結局はおとなの児童観反映の歴史になるわけで、その意味でこの本には十五、六歳の少年を侵略者という形の被害者に仕立てて恥じなかった日本人の児童観、人間観のゆがみを告発する気持がこめてある」と。(朝日新聞1973年4月9日朝刊13面「インタビュー 上笙一郎氏」)
『十五、六歳の少年を侵略者という形の被害者に仕立てて恥じなかった日本人の児童観、人間観のゆがみ』
まさにそういう点が欠けていて、このインタビューから50年経った今も変わっていないんですよね。。。
<おまけ>(その2)
ドイツ・ナチス党の青少年組織「ヒトラーユーゲント」の一行30人が1938年の8月から11月にかけて日本に滞在して日本国中を旅行しています。
そして『日独青少年団交驩会事業概要』13によれば、内原にもやってきています。
具体的には
9月30日 7・48上野發茨城縣に赴き6・49帰京
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所、水戸市偕楽園、彰考館文庫、武徳殿、弘道館見學、常磐神社参拝、好文亭にて縣聯合青少年團歓迎會、縣知事招待お茶の會。
(『日独青少年団交驩会事業概要』p.56)
とあって、9月30日に東京から日帰りで訪れています。
当時の地元紙「いはらき」(現在の茨城新聞)には、大歓迎された様子が掲載されていました。
(ちなみに10月1日付の夕刊は9月30日に発行されています)
丗日午前十時五分防共の盟邦ドイツ若人を乗せた列車は破れるような歓迎▪️に内原驛に到着した、シユルツエ團長に續いて二十歳のレデツカ副團長の後から霜降りの上着に半ズボン、▪️ビーをスマートに冠り左腕にハーゲンクロイツを巻いた颯爽たる若人達は松原社會教育課長の案内で降りたてば宮田縣聯合青年団長とシユルツエ團長が固い握手を交わした、今やここに、この田舎驛を背景に全欧を震駭するゲルマンの若人と、勤皇精神発祥地の若人との感激の固き握手が結ばれたのである驛前に歓迎の下館高女生徒の一團から刺繍をおくられて「ダンケ、シエーン」と微笑を投げたユーゲントの一行三十名は、バス二隊に分乗して、内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に向かった一行がバスを降りると日章旗と満洲国旗を▪️流はためかして「彌榮神社」参拝に出かける所の訓練所「土の健兒」に出会ひ、碧眼に深い思ひをこめて、ユーゲントの一行はそれを見送つた、入口に到着すると、訓練所のラッパ鼓隊は勇壮なる歓迎曲を吹奏して迎へ、一糸乱れぬ統制下にユーゲントは栄養食本部に入り、加藤所長の挨拶をうけ後、水野少将の案内で日輪舎、開拓所などを見学したが、土と共に生きる民族から深い感銘を受けた若人達は感激を眸にうかべ囁き合つてゐる、一行に従った水高教授クルト・バイエル氏令嬢のアテリーゼ(▪️)さんが水戸に居住する唯一のヒトラーユゲント、女子部團員で、感激に小鳩のような胸を、わなゝかせ時々爽やかな声で説明する、同訓練所を隈なく視察した後同訓練所の栄養食に物めずらしさうに舌をならした一行は、零時半これより一路水戸市に向かった
(いはらき1938年10月1日夕刊2面「”ナチス青春部隊"けふ来縣」)
▪️は読み取れなかった部分
そして翌日朝刊には水戸での歓迎や見学の模様と、レデツカ副団長の感想も記事になっていました。
内原訓練所について語った部分は
内原訓練所の諸施設には驚いた、あのみごとな統制には我々は全く及ばないやうに思ふ、そして僅か二ヶ月の訓練でどんどん開拓地に赴くのは素晴らしい、あの日輪舎は不思議な建築物で、我々は諒解がゆくやう幾度も質問した、舎も満洲と同じ格好だし、生活も同様だから、満州へ行っても立派にやりとげることと思ふ具欲を云へば内原では土を開拓してゐる有▪️を見たかった
(いはらき1938年10月1日朝刊3面「”素的な好文亭"レデツカー副團長語る」)
▪️は読み取れなかった部分
「内原訓練所」を「日本農業実践学園」に置き換えると、今回のフィールドワークとよく似た行程です。(フィールドワークでは日本農業実践学園で昼食をいただきました)
現在のドイツではヒトラーユーゲントがどのように扱われ、伝えられているのかも少し気になりました。
(補足)
ネットで読むことのできる参考資料
一條三子さんの連載(連載中)
「「満蒙開拓」を考える」HP「満蒙開拓青少年義勇軍」小史
白取道博さんの論文
北海道大学学術成果コレクション「満蒙開拓青少年義勇軍」の創設過程
北海道大学学術成果コレクション「満州」移民政策と「満蒙開拓青少年義勇軍」
北海道大学学術成果コレクション「満蒙開拓青少年義勇軍」の変容(1938~1941年):「郷土部隊編成」導入の意義
横浜国立大学学術情報リポジトリ「満蒙開拓青少年義勇軍」の政策的位置(1941~1945年)
更新履歴
2024年8月16日 新規作成
2024年8月17日 ヒトラー・ユーゲントの話を追加
2024年8月20日 誤記修正:本法寺別院碑文(誤)王道楽士 (正)王道楽土
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白取道博 編・解題. 満蒙開拓青少年義勇軍関係資料 第4巻 第3編 (募集用宣伝文書), 不二出版, 1993.9, 10.11501/13227851. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002283540 ↩︎ ↩︎
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田河水泡 文・繪. あなたも義勇軍になれます, 拓務省拓北局, [194-]. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008248106 ↩︎
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加藤完治全集刊行委員会 編. 加藤完治全集 第5巻, 加藤完治全集刊行会事務局, [1967-1982], 10.11501/12408346. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I12408346 ↩︎
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茨城県教育庁文化課 編. 茨城県の近代化遺産 : 茨城県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書, 茨城県教育委員会, 2007.3. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008570031 ↩︎ ↩︎
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新建築 16(5)-(8) 19400500-19400800. 復刻版, 不二出版, 1940. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008384813-i24709961 ↩︎ ↩︎
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『開拓 : 東亞一般誌』5(4),満洲移住協会,1941-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3544615 ↩︎ ↩︎
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上笙一郎 著『満蒙開拓青少年義勇軍』,中央公論社,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12396967 ↩︎ ↩︎
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「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編纂. 角川日本地名大辞典 8 (茨城県), 角川書店, 1983.12, 10.11501/12191099. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001646574 ↩︎
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内原町史編さん委員会 編. 内原町史 通史編, 内原町, 1996.3. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002525730 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
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東茨城郡教育会 編纂『東茨城郡誌』下巻,臨川書店,1986. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9643846 ↩︎
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『茨城県土地改良事業60年誌』,茨城県土地改良事業団体連合会,1962. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2500299 ↩︎
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全国拓友協議会 編. 満蒙開拓青少年義勇軍 : 写真集, 家の光協会, 1975, 10.11501/12398089. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001219555 ↩︎
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日独青少年団交驩会 編『日独青少年団交驩会事業概要』昭和14年4月,日独青少年団交驩会,昭14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1441650 ↩︎