大阪城周辺の戦跡巡り
2023年9月16日訪問
酷暑が続いていた2023年9月の3連休に大阪へ行ってきました。
せっかく大阪まで行ったので、大阪城周辺の戦跡を巡りました。
「ピースおおさか」のホームページにある周辺見学モデルコース
のA, B両コースプラスアルファという欲張りコースでございます。
私は大阪城を歩いてほぼ2周したんですが、これは運動不足のおっさんにはきつかった。。。歩くのが辛いほどの足の痛みが数日続きました。。。
翌日、貸し自転車屋さんを見つけて、自転車で大阪城をもう一周したらむっちゃ楽!
自転車利用できるんだったら、自転車がお勧めです。(最近都市部でよく見る、スマホ使って借りる自転車でもいいと思います。)
今回のレポートでは実際に回った順番ではなく、2日間かけて回ったところをごっちゃに紹介します。
まずは現在の地図から
そして1932年の同じ範囲の地図と、戦後1948年の航空写真。
今回はこの範囲内を巡りました。
っということで、まずは自転車借りることをお勧めします。。。
私が自転車を借りたのは、前の地図でいうと左下。
うえまち貸自転車 google mapでこの辺
からほり れんlen
という古民家を利用した施設の一角にあります。
ここのオーナー、いろんなお話をしてくれます。
「これから戦跡まわろうと思ってるんです」って話をしたら、どわぁーっとこの辺りのお年寄りから聞いた話などをいっぱい教えてくれました。
さて、このお店のある辺り、
先に出した1948年の航空写真の左下、ちょっと写真で黒っぽく写っている場所です。
この写真の大半は白っぽいんですが、よく見ると丸い窪みのようなものがいくつも見えます。
これは爆弾が落ちた跡です。
逆に左下に黒っぽく写っている辺りは空襲で焼けず、建物が残っている場所。
ですので、このお店のある辺りには戦時中以前に建てられたと思われる(確証はないですが。。)建物が結構残ってます
貸自転車屋さんのオーナーに教えてもらったのが
榎木大明神 google mapでこの辺
置いてあった説明の栞によると、この大木は樹齢約650年の槐(えんじゅ)で、
空襲でもここから東側は焼け残った、ということで「不思議なことだ」と語り伝えられているそうです。
では大阪城方面に向かっていきましょう。
大村益次郎殉難碑 google mapでこの辺
これは大きさにびっくりします。
写真ですぐ後ろに写ってる2階建ての建物よりでかいですからね。。
そして下に彫られた賛助者には教科書に出てくるような人がいっぱい。。。
大村益次郎
というのは明治時代に軍隊の近代化をおこなった人なんだそうです(私知りませんでした)。
この碑については1944年に出版された『大村益次郎』1という本の29章に経緯などが詳しく書かれていました。
そして
歩兵第37連隊跡碑 google mapでこの辺
今は大阪医療センターの敷地内にあります。(下の写真の茂みの向こう)
おそらくこの中で一番古いのはこれ
裏側には
此碑は元営門内築山に在りし物にして終戦後撤去されおりしも北庭園を造築するに当り三七会之を再建せしものなり
そしていつ作られたかは分かりませんが、
歩兵第三十七聨隊
明治三十一年創設
昭和二十年廃止
三七会建之
だんだん新しくなって
道路を挟んでほぼ向かい側に
歩兵第8連隊跡碑 google mapでこの辺
前掲の1932年発行の地図に重ねると
JR森ノ宮駅のすぐ近く
森之宮神社 google mapでこの辺
聖徳太子創設という、かなり歴史のある神社です。
ここの狛犬は元々青銅製だったものを金属供出して、石で再建したものなのですが、
台座のところに機銃掃射の傷跡が残っています。
ピースおおさか google mapでこの辺
本当はここからスタートすべきですね。
どんな展示があるのかはホームページに詳しい紹介があります。
ピースおおさかホームページ「館内案内」
中庭には大阪空襲犠牲者の名前が刻まれた「刻の庭」
があります。
このピースおおさかのすぐ近くにあるのが
大阪府傷痍軍人会・同妻の碑 google mapでこの辺
永遠の平和を願って
人間にとって、戦争ほど恐ろしいものはありません。
その苦しみや残酷さを知った戦傷病者とその妻が、永遠の平和の願いをこめて植樹し、この碑を建てました。
どうかいつまでも知っていて下さい。一九九二年三月
大阪府傷痍軍人会・同妻の会会員一同
1948年の航空写真で大阪城の南側に細長い建物が見えます。
これは射撃場です。
陸軍 城南射撃場跡碑 google mapでこの辺
城南射撃場は、昭和7年5月陸軍によって建設、戦後は陸上自衛隊に引き継がれて隊員の訓練などに供されていた。
昭和43年11月、大阪市の緑化100年運動の一環である大阪城公園の整備推進に協力し、撤去された。昭和44年5月24日 大阪市
そして巨大な
教育塔 google mapでこの辺
説明板によれば
教育塔
この塔は、一九三四年第一次室戸台風によって多くの犠牲者を出したことを機に、大阪の教育界が提唱し、当時の帝國教育会によって、一九三六年十月三〇日に建立されました。
一九四八年、日本教職員組合が憲法・教育基本法の理念にたち、塔の維持・管理をうけつぎ、現在にいたっています。
本年、一月一七日におこった阪神・淡路大震災により、多数犠牲となった教職員・子どもたち・保護者など教育関係者が特別合葬されました。
本年はまた、第二次世界大戦後五〇年にあたります。未来の恒久平和と安全に心を留め、あらためて犠牲者のご冥福をお祈りいたします。
第六〇回教育祭にあたり、教育塔の補修工事を行いました。塔の高さは三〇m、面積は三三三m2、塔の下の中央は一六二m2、両側はそれぞれ八六m2です。外側は白色の花崗岩でおおわれています。芳名室には合葬された方々の名板がおさめられています。一九九五年一〇月
教育塔維持管理委員会
教育塔ホームページ
もあって、
それによれば毎年「教育祭」というのがおこなわれているそうです。
元々の経緯については1937年に出版された『教育塔誌』2に詳しく出ていました。
塔ができた当時の掲示板の全文が出ていたので、ここに引用してみると
明治五年學制頒布以來職に殉じて死節を全うしたる教職員及び不慮の難に殉じたる學生、生徒、児童の英霊を合祀し名づけて教育塔といふ爾今永久に斯かる殉職者殉難者ある時はこれが合祀を續け以て英霊を千古に慰め偉勲を不朽に傳へ○て教育精神を天下に顕彰せんとすこの企圖
天聽に達するや御内帑金御下賜の恩命あり 聖恩宏大我等教育關係者恐懼感激夙夜奉公を維れ誓ふ
塔は高さ百一尺建坪百一坪鐡骨鐡筋混凝土にて造り花崗岩を以て覆ふ塔心室一芳名室二あり塔心に銘を刻し芳名板を安置す外部正面の浮彫右は教育精神を表徴し左は特に風水難に當り奮起セル教育者の兒童愛を表現したるものなり皇紀二千五百九十六年
昭和十一年十月三十日
帝國教育會(『教育塔誌』p.179)
そして10月30日というのは『教育勅語御下賜の佳日』(『教育塔誌』p.42)
戦後は日本教職員組合が『憲法・教育基本法の理念にたち』受け継いでるそうなんですが、
どうなんでしょうね、そのまま継承しちゃっていいもんなんだか。。。
ラジオ塔 google mapでこの辺
いやぁ、こんなもんあったんですね。
ラジオ塔の少し先に
被爆四十年平和祈念碑 google mapでこの辺
『被爆四十周年記念誌 : 被爆体験と過去・現代・未来を綴る』3という本にこの祈念碑について紹介されていました。
八月二十五日大阪城公園の一角に、核兵器のない真の平和が実現するよう願って平和祈念碑の建立と四十周年記念植樹を行いました。
(『被爆四十周年記念誌 : 被爆体験と過去・現代・未来を綴る』p.70)
大手門をくぐった先に
旧大阪陸軍兵器支廠本部門 google mapでこの辺
説明板はありませんが、門柱と塀は当時のままだそうです。
さらに大阪城の中心部へ
天守閣が見えるところに、ちょっと年季の入った
「大阪城公園内に残る戦争の傷あと」銘板 google mapでこの辺
大阪城公園内に残る戦争の傷あと
先の戦争において我が国は、アジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れてはなりません。大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
ここ、大阪城公園も幾多の空襲により、1トン爆弾による大阪城天守閣の石垣のずれ(天守閣東北隅)や機銃掃射による石垣の弾痕のあと(天守閣の北・山里曲輪付近の石垣)をはじめ、空襲によると思われる石垣のずれなど数多くの戦争の傷あとを残しています。
当時、公園内には軍事施設が多数あり、その中でも、第四師団司令部として使われた庁舎は、軍事施設として大阪市内で現存している最も規模の大きな建物です。
また、公園東側一帯に広がっていた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、面積1.18平方キロの我が国最大規模の兵器工場であり、戦争末期には大阪本廠を含めた全工場で一般工員のほかに動員学徒・女子挺身隊・一般徴用工員など64,000人が働いていました。その中には、当時の植民地支配の下で強制連行などにより集められた1,300人以上と言われる朝鮮青年も含まれていました。
大阪陸軍造兵廠は、1945年(昭和20年)8月14日の激烈な爆撃により壊滅し、今では科学分析場として利用された施設(元自衛隊大阪地方連絡部)など一部を残すのみとなっており、本館があった場所には多目的利用ができるホールとして「大阪城ホール」が建ち、診療所があった場所には、大阪府・大阪市が共同で世界の平和と繁栄に積極的に貢献する施設として設立した「大阪国際平和センター(ピースおおさか)」があります。
戦後50周年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設定します。1996年(平成8年)3月
大阪府/大阪市
この銘板のすぐ裏にあるのが
旧陸軍第四師団司令部庁舎 google mapでこの辺
今は「ミライザ大阪城」というおしゃれな施設として利用されています。
中にはお店がたくさん入ってるんですが、この建物についての説明はほとんどありませんでした。。。
「ミライザ大阪城」のホームページ
にこの建物の歴史が少し説明してあります。
天守閣の方へ行くと
天守台石垣の爆撃被害跡 google mapでこの辺
結構ひずんでますよね。。。
大阪城ホール方向へ向かってくだっていく途中
メインの通りから少し外れてるので見落としがちですが。。。
山里丸石垣の大阪空襲機銃掃射痕 google mapでこの辺
大阪城公園の外へ出て、
現在の追手門学院の脇、横断歩道の階段の先に・・・
陸軍標柱 google mapでこの辺
大阪城の東側を囲むようにあったのが当時日本最大規模の兵器工場
大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)です。
『大阪砲兵工廠の八月十四日 : 歴史と大空襲』4についていた地図で造兵廠の敷地をざっくり赤線で囲むと、
冒頭に出した1932年発行地図で同じところを囲むと、1932年に「城東練兵場」だった場所も工場敷地になっています。
1948年の航空写真で同じことをすると
ここからはこの大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)の痕跡をたどります。
先ほどの陸軍標柱の近く、大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)の西端からスタートしましょう。
番号はこの先に出す、地図上の番号と一致します。
①大阪砲兵工廠正門跡 google mapでこの辺
当時の写真を探したら、大正3年出版の『大阪府写真帖』5にありました。
右下が正門で、塀はまさにそのまま(この写真あるの知ってたら同じアングルで撮ってきたのに・・・)
大正3年の写真で門の奥に写ってる建物はおそらく守衛詰所ですが、
現在では今にも崩れてしまいそうです。
そしてすぐその先に
②旧大阪砲兵工廠化学分析場 google mapでこの辺
これまた廃墟で、今にも崩れてしまいそうです。
説明文にある「巨大な鉄の塊」というのは多分これ。
そして大阪城ホールの裏(?)にあるのが
③大阪砲兵工廠 荷揚げ門 google mapでこの辺
この荷揚げ門の近くに下の写真のようなものもあります。
恐らく砲兵工廠当時のものだと思いますが、詳細は不明です。
次に砲兵工廠があったことを示す2つの碑に進みましょう。
1つは大阪城ホールの近く
④大阪砲兵工廠跡碑(御蔵曲輪跡) google mapでこの辺
大阪陸軍造兵廠は明治三年(一八七〇)二月大阪城三の丸跡に創設され大阪造兵司と称して兵器製造の作業を始めたその後大阪砲兵工廠などと数度改称されたが終戦によって陸軍が終止符を打った昭和二十年(一九四五)八月まで七十五年の長い間主として各種火砲戦車弾薬類を製造し終戦時の従業員は約六万人地積は約四十万坪であった
特に当工廠は陸軍唯一の大口径火砲の製造工廠でありいくたびかの戦役に際してその重責を果たした功績は大きかったまたその技術は国内外から高く評価され諸外国から受註して製作した兵器は多数に達した
昭和三十四年八月十四日殉職者のみたまを慰める式典を行なったのを機会に当時をしのぶためその遺跡の一角にこのいしぶみを建てるものである昭和三十四年八月十四日
大阪廠友会会長
根本荘行 識 道田峰石 書
もう1つは少し離れたUR森之宮団地内にあります。
⑤大阪砲兵工廠跡 google mapでこの辺
なんの由来も書いてないので、詳細は分かりません。
隣の祠が関係あるのかどうかも分かりません。
大阪砲兵工廠の地図と1948年の航空写真に、上記5箇所をプロットしてみます。
実際に歩くと、その巨大さを体で感じられます。
航空写真の方を見ると分かりますが、この敷地内にも爆弾の跡がたくさんあります。
大阪砲兵工廠は1945年8月14日の空襲で壊滅的な被害を受けました。
体験手記を『大阪砲兵工廠の八月十四日 : 歴史と大空襲』4で読むことができます。
また、流れ弾の1トン爆弾が近くの京橋駅にも落ちて多数の犠牲者が出ています。
この時の記憶が描かれた絵を『大阪大空襲の記録 : 母から子どもたちへ 画集』6で見ることができます。
大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑 google mapでこの辺
大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑
太平洋戦争終戦前日の昭和二十年八月十四日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の一トン爆弾が数発、京橋駅に落ちた。うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は二百十名であるが、実際には五百名とも六百名とも言われている。
当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏が、あまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和二十二年八月十四日、自費で建立された慰霊碑である。納経堂
戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年八月に慰霊碑の前で妙見閣寺によって行われているが、三十七回忌を機に写経による供養をと、遺族及び、当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他の市民からの基金、協力を得て建立された納経堂である。
釈迦牟尼仏像と平和祈念像
この惨事を後世に伝えるため、昭和五十九年に釈迦牟尼仏像と平和祈念像が建立された。これは大阪城東ライオンズクラブが結成二十周年事業として寄贈したものである。
空襲被災者慰霊祭世話人会
大阪市城東区役所
JR西日本京橋駅
大阪城公園内で朽ちていくだけのように見える建物がどうなってしまうのか心配です。
ちなみに今回引用した本は全て国会図書館で個人送信になってますんで、利用者登録している方ならば家で読むことができます。
更新履歴
2023年10月11日 新規作成
2024年1月2日 移行に伴う見た目調整
2024年1月5日 訪問日追記
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大村益次郎先生伝記刊行会 編『大村益次郎』[本編],肇書房,昭和19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1057964 ↩︎
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帝国教育会 編『教育塔誌』,帝国教育会,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1461847 ↩︎
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「四十周年記念誌」編集委員会 編『被爆四十周年記念誌 : 被爆体験と過去・現代・未来を綴る』,大阪府原爆被害者団体協議会,1985.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12110901 ↩︎
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大阪砲兵工廠慰霊祭世話人会 編『大阪砲兵工廠の八月十四日 : 歴史と大空襲』,東方出版,1983.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12284410 ↩︎ ↩︎
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大阪府 編『大阪府写真帖』,[大阪府],大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966056 ↩︎
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大阪大空襲の体験を語る会 編『大阪大空襲の記録 : 母から子どもたちへ 画集』,三省堂,1983.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12228046 ↩︎