虐殺100年の現在地ー埼玉・熊谷の虐殺現場を歩く
2023年11月5日訪問
「ヒロシマ講座」虐殺100年の現在地〜歩いて考える関東大震災 フィールドワーク
今回は埼玉県。熊谷を、東アジアの平和を考える市民の会の嶋田道雄さんたちに案内していただきました。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
まずは熊谷駅発の「ゆうゆうバス」で
熊谷市 久下公民館 google mapでこの辺
ここには「100年前の久下新川村は舟運と養蚕で栄えました!!」という看板がありました。
ここから旧中山道沿いをたどります。
適当な地図が見つけられなかったので、明治13年(1880年)から明治19年(1886年)にかけて陸軍の参謀本部が作成した「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」を使います。関東大震災よりも40年以上前ですので、震災時とは違っている可能性が高いですが、一番当時に近いものだと思います。
農研機構農業環境研究部門が作った「歴史的農業環境閲覧システム」
を使わせていただきました。
今回歩いた場所の全体像から。
青枠は今回歩いた範囲で、このあと拡大図を示します。
各場所での証言を『かくされていた歴史』1から引用しながら見ていきます。
まずは荒川土手から東竹院まで
荒川土手 google mapでこの辺
証言
四日に朝鮮人がたくさん歩いて来ました。(中略)話によると、荊原の堰の所で、逃げようとした朝鮮人が、トビを持った日本人にひっかけられ、見ていた人が「逃げなければいいのにね。逃げるからやられるのだ」といっていたそうです。その人が殺されたかどうかは、聞いておりません。
(「かくされていた歴史」p.66)
証言
四日、学校の帰りに自転車で荒川の土手にのぼった時、吹上方面から、たくさんの人が、土手の小段を歩いて来るのが見えました。人数はわかりませんが、二、三百人もいるかと思いました。三、四十人に一人ずつ警官が付いていたと思います。それが朝鮮人だったのです。(中略)
やがて、土手の小段の所で休憩したようです。その時、前の稲の植えてある田圃の中の小道へ、一人の朝鮮人が逃げ出しました。その後を、棒など変な物を持った連中が、十数人追いかけて行きました。朝鮮人は、元荒川にとび込みました。当時は、澄んだ幅数メートルくらいの川でした。私が行った時には、棒などで突っつき、引き寄せていました。水の中でずいぶん苦しんでがまんしていたようですが、土手に引き寄せられたかと思うと、また水の中にしゃがんでしまいました。そして立ち上がったら、川の端でつるはしを持っていた人が、それを脳天にぶっ刺し、引き寄せたのです。
(「かくされていた歴史」p.67)
久下(くげ)神社 google mapでこの辺
証言
荒川の土手を離れて久下神社の前に行きました。当時は神社の脇に駐在所と久下役場があり、その役場の裏に蓮池がありました。突然三、四人の朝鮮人が、役場の脇を通り、蓮池の方へ逃げました。人びとが追いました。すると追われた四十才がらみの男の朝鮮人が、蓮池をまわって、もどって来ました。誰かがその朝鮮人をひっくりかえしてしまいました。(中略)数十人が輪になって朝鮮人を取り囲み、十貫目位の石を、ころがった朝鮮人の背中にぶっつけました。その石が、ごろごろと、ころがって向うへ行くと、それをまた向うの人が拾ってぶつけました。四、五回やられ、朝鮮人は身体をぐっと伸し、息絶えたようでした。
私の見たのはそこまでですが、見はじめてから、一時間か二時間ぐらいだったと思います。蓮池の所でも幾人か殺されていたそうですが、私は見ませんでした。
(「かくされていた歴史」p.68)
証言
蓮池で二人殺されていました。瀬山商店(久下神社の前)の前でも一人殺されました。
(「かくされていた歴史」p.69)
証言
四日になって、「朝鮮人が久下に入って来た」と聞いて、私は自転車で見に行きました。行って見ると、すでに久家神社の裏の蓮池のまわりに、五、六人死んでいました。
(「かくされていた歴史」p.78)
医王寺跡 google mapでこの辺
現在公園になっているあたりに本堂があったとのこと。
証言
医王寺(久下村)に朝鮮人が七、八人埋葬されています。(中略)当時は、暑い頃だったので、朝鮮人が日射病で死んだことにして埋葬してしまったのです。
(「かくされていた歴史」p.69)
東竹院(とうちくいん) google mapでこの辺
ここは最近ニュースになったところです。
毎日新聞電子版2023年9月23日(有料記事)
熊谷・久下 東竹院 刻まれた「横死者」朝鮮人虐殺犠牲者か 新たな「供養塔」発見 /埼玉
入ってすぐ右側
表面
関東大震火災
横死者諸精霊
供養塔
裏面
大正十四年九月三回忌日
當山廿六世秀道代
(この後、発願者と塔寄付者の名前)
さらに熊谷の中心部へ向かいます。
大雷(おおいかずち)神社 google mapでこの辺
証言
熊久橋を過ぎて少し行った所で、一人逃げ出し、元荒川を渡ろうとして、一本橋だったので踏みはずして川に落ち、殺されてしまいました。(中略)
元荒川で殺された朝鮮人は、村の鎮守の大雷神社の裏に報恩寺の墓地があり、そのそばに深く掘って埋めました。
(「かくされていた歴史」p.72)
証言
一人が私の家と隣の家の間を逃げ出して、元荒川を越えようとして落ちてしまい、這い上がろうとするのをたたいて殺してしまいました。(中略)
一人死んだのは、(中略)埋めました。それは、佐古田の大雷神社のそばの地蔵様の裏になる所です。
(「かくされていた歴史」p.72)
旧橋本長太郎宅 google mapでこの辺
証言
護送された朝鮮人たちは縛られていて、食い物も食うような食わないような状態で、ここまで歩いて来ました。人数はよく数えなかったけど、四、五十人位いました。(中略)
この地区の役員が休ませた方がよかろうといって、橋本長太郎さんで休ませたのです。橋本さんのところでは、家の中へは入れられないから庭で休ませたのです。その時、食事を何かくれました。(中略)
とにかくここの家の庭にいたうちは誰も手を出さない、問題はここを出てからです。
(「かくされていた歴史」p.73)
旧松本米穀製粉(旧日東製粉) google mapでこの辺
証言では「日東製粉」と言われていますが、
日東富士製粉の沿革
によると、1914年に松本米穀製粉(株)として設立し、1930年に日東製粉(株)と改称していますので、関東大震災当時は松本米穀製粉(株)です。
証言
朝鮮人は、高崎線の踏切に行くまでに、人数ははっきりしませんが、二、三十人殺され、それから、日東製粉から清水橋、そして筑波町から警察と郵便局を通って、熊谷寺に行くまでの間に殺されたのです。
(「かくされていた歴史」p.74)
証言
まず筑波町から日東製粉の所まで行きました。すると製粉の所では、もう五、六人殺されていました。それから踏切を二つ渡った向うに、また三、四人殺されているわけです。
(「かくされていた歴史」p.75)
旧熊谷警察署 google mapでこの辺
証言
久下の蓮池、「左富士」の酒屋附近、熊谷町の入口でそれぞれ殺され、警察の前では十六人も殺されていました。
(「かくされていた歴史」p.79)
熊谷寺(ゆうこくじ) google mapでこの辺
普段は中に入ることができません。
証言
熊谷寺では、生から死まで見ました。寺の庭では、一人の朝鮮人を日本人がぐるっと取りまいたグループが、五つほど出来ました。そして殺すたびに「わあ、わあー」「万才、万才」と喊声が上がるのです。(中略)
熊谷寺だけで、五、六人殺されていたと思います。
(「かくされていた歴史」p.79)
証言
四日の夕方の六時頃、朝鮮人達が、中仙道から前の道に入って来ました。汗を流して、真黒な顔で、日本人にみんな結えられていました。(中略)それに、竹槍だの刀だのを持った日本人たちがぞろぞろついて熊谷寺の庭に入りました。(中略)朝鮮人は六、七人通ったと思います。
夜、遅くなって寺の庭で殺されてしまいました。その翌朝はもうみんなむしろが、かかっているのです。
(「かくされていた歴史」p.80)
ここでも虐殺は起きていました。
更新履歴
2024年1月15日 新規作成
-
かくされていた歴史 : 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件, 関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会 (日朝協会埼玉県連合会内), 1974, 10.11501/12229336. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001219511 ↩︎