虐殺100年の現在地ー群馬ー藤岡・倉賀野・群馬の森ーを歩く
2023年12月2日訪問
「ヒロシマ講座」虐殺100年の現在地〜歩いて考える関東大震災 フィールドワーク
今回は群馬県。
藤岡事件、倉賀野事件の慰霊碑、そして群馬の森を、藤岡事件を語りつぐ市民の会事務局長の秋山博さん、「記憶・反省そして友好」の追悼碑を守る会の石田正人さんに案内していただきました。
まずは大和屋旅館でお話を聞いてから現場へ。
その後自分で調べたことも含めて、ご紹介していきます。
自分で調べたことも結構入っていますので、内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
ちなみにお話を伺った大和屋旅館
さん
大和屋旅館 google mapでこの辺
すごーく懐かしい感じの旅館で、食事も美味しかったです。
HPを見たら、お値段も良心的。
まず向かったのは藤岡事件の慰霊碑
成道寺 google mapでこの辺
道を挟んだ向かい側にある墓地に慰霊碑があります。
藤岡事件とは・・・
1923年9月1日の関東大震災後、9月3日から4日にかけて埼玉県北部で朝鮮人虐殺事件が起きます。
この情報を背景に藤岡警察署が17人の朝鮮人を保護し、留置場に無施錠で収容。
そのことを知った地元の民衆や自警団が警察署に押しかけ、9月5日の夜にはその人数が2000人に達して、遂に警察署内に突入。留置場に収容されていた朝鮮人を襲い、かろうじて逃げ出した1人を除く16人が虐殺されます。
翌6日には1人の朝鮮人が消防手に引っ張られてこられ、一旦は警察に保護されますが、その日の晩に再び多数の群衆が押し寄せ、虐殺されます。
こうして、17人の朝鮮人が犠牲となった事件です。
参考資料)
『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料 2 (群馬県関係)』1 猪上輝雄「解説 関東大震災時における群馬県藤岡での朝鮮人虐殺事件とその裁判について」
現代の理論「なぜ群馬で朝鮮人虐殺は起きたのか」(栗原 佳子)
現在の碑は2代目です。
最初の碑は事件の翌年1924年6月2日に建立されました。
この碑の行方はわからないそうですが、当時の碑文が『藤岡町史』2に載っていました。
大正十二年九月震災事変殉難者追弔之碑
帝都震後物情騒然罹奇禍者不可挙数。其於藤岡殉難者亦実十七人、町民悼其心事、葬遺骨、於成道寺樹碑、勒氏名以祈冥福云。(この後に犠牲者17人の名前と、賛助員として藤岡町長、藤岡警察署長、帝国在郷軍人会藤岡分会長、藤岡消防組頭、藤岡青年会長、藤岡町助役、そして発起者7人の名前)
大正十三年六月二十二日
金二十円 永代供養料 洪物杓 京城(『藤岡町史』2p.1254)
最初の碑が破損したために1957年に再建されたものが、現在ある碑です。
裏面の碑文はかすれていて読みにくいのですが、『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料 2 (群馬県関係)』1に記載がありましたので、そちらを利用させてもらいます。
碑文正面
関東大震災朝鮮人犠牲者
慰霊之碑
群馬県知事竹腰俊蔵書(『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料 2 (群馬県関係)』1p.452)
碑文裏面
(犠牲者17人の名前)
過ぐる大正十二年九月一日突如として起つた関東大震災に依つて世情が極度の不安に襲われた時朝鮮人暴動の流言が伝わり各地に於て多くの犠牲者を出すに至つた藤岡市に於ても東京埼玉方面より避難して来た十七名の者が悲惨な最後を遂げた当時の非常の死を遂げた各位の霊を慰める爲め地元有志の手に依つて成道寺内に慰霊碑を建立したが時勢の変転と共に原型さえ失うに至つたので日朝両国人有志は再び建碑する議を起し各方面の浄財を募り茲に竣工を見た願うことは今後再びこの様な惨事の發生を断ち互にアジアの兄弟として共に手を取り合つて世界平和への貢献に邁進したい遥るかに犠牲者の冥福を祈り建碑の記とする
一九五七年十一月一日萩原進文(この後に元の碑にあった賛助員が「元賛助員」として刻まれ、その後ろに現在の碑を建立する際の発起人名)
(『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料 2 (群馬県関係)』1p.452)
碑には犠牲者17人の名前が刻まれています。
関東大震災時の虐殺犠牲者の名前が刻まれている場所はほとんどなく、ここ以外には
埼玉県正樹院の具學永さんのお墓
埼玉県常泉寺の姜大興さんのお墓
の2カ所だけです。
虐殺があった藤岡警察署があった場所は成道寺のすぐ隣
警察署は移転しており、今は駐車場と派出所になっています。
次に向かったのは、倉賀野事件の慰霊碑
九品寺 google mapでこの辺
お寺に入ってすぐ左側にお地蔵様があります。
お地蔵様のすぐ裏が壁なので、その隙間にiPadをつっこんで裏側の写真撮りました。
正面には
泰造地蔵爲顕光照道信士菩提
大正拾弍年九月四日(『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料 2 (群馬県関係)』1p.453)
裏面
大正拾参年四月四日 建立
倉賀野町町民
(『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料 2 (群馬県関係)』1p.453 には『大正拾四年』とありますが、写真を見ると『拾参』のようです)
倉賀野事件とは・・・
倉賀野町の巡査駐在所に保護されていた1人の朝鮮人がいたのですが、9月4日午前に自警団員たちがやってきてその朝鮮人の引き渡しを要求し、無理やり連れ出した挙句、石塊で朝鮮人に暴行を加え、最後は九品寺の墓地で殺害してしまった、という事件です。
参考資料)
『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料 2 (群馬県関係)』1 山田昭次「解説 関東大震災時群馬県群馬郡倉賀野町朝鮮人虐殺事件裁判判決書」
最後は
「記憶、反省、そして 友好」の追悼碑 google mapでこの辺
(google map上は隣の碑になっちゃいますが・・・)
追悼碑建立にあたって
20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地にして支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。
21世紀を迎えた今、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。2004年4月21日 「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を 建てる会
碑文中「朝鮮」及び「朝鮮人」という呼称は、動員された当時の呼称をそのまま使用したもので、現在の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、及び両国の人達に対する呼称である。
この碑は県の許可を受けて2004年に市民団体が建てたものです。
2014年に設置延長が県に許可されなかったことから訴訟になり、2018年に前橋地裁が県に碑の設置延長不許可処分の取り消しを命じたんですが、2021年に東京高裁がその判決を取り消し、2022年に最高裁で上告が棄却されています。2023年4月に県は撤去命令を出し、10月に市民団体はこの撤去命令の取り消しなどを求めて前橋地裁に提訴しています。
参考資料)
東京新聞2022年10月1日「群馬の朝鮮人追悼碑、県は「違反の政治的発言あった」と撤去検討 市民団体は存続求めるが…」
毎日新聞2023年10月13日「高崎・朝鮮人追悼碑 撤去停止を求め市民団体が提訴 /群馬」
次の論文は最初の前橋地裁の判決前に出ているものですが、それまでの経緯を簡潔に知ることができます。
藤井正希2018「群馬の森追悼碑裁判の経緯と憲法的問題点」
つい最近(2023年12月25日)、この藤井先生の著書が出版されています(読んでみたい・・・)。
「検証・群馬の森朝鮮人追悼碑裁判 歴史修正主義とは?」(雄山閣)
群馬県は代執行も辞さない姿勢のようですが、そもそも代執行ってのは。。。
行政代執行法3
第二条 法律(法律の委任に基く命令、規則及び条例を含む。以下同じ。)により直接に命ぜられ、又は法律に基き行政庁により命ぜられた行為(他人が代つてなすことのできる行為に限る。)について義務者がこれを履行しない場合、他の手段によつてその履行を確保することが困難であり、且つその不履行を放置することが著しく公益に反すると認められるときは、当該行政庁は、自ら義務者のなすべき行為をなし、又は第三者をしてこれをなさしめ、その費用を義務者から徴収することができる。
私が太字にしている部分、公園の片隅にひっそりと建っている碑のどこが「著しく公益に反する」のか?
この碑を撤去することは、日本が負の歴史に目を向けない歴史認識を持つということを世界に知らしめる、という「著しく公益に反する」行為だと思いますけどね。
ところで
この碑がある群馬の森は
かつて東京第二陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所という巨大な軍需工場だった場所の一部です。
1882年に操業を開始しており、東京の板橋火薬製造所に次いで二番目に長い歴史を持つ火薬製造所でした。
操業当初は黒色火薬を製造していたが、(中略)一九〇六(明治三十九)年からダイナマイトの製造が開始された、陸軍における唯一のダイナマイト工場でもあった。
さらに一九三三(昭和八)年からは無煙かやくの製造も開始され、敗戦の一九四五(昭和二十)年まで黒色火薬・無煙火薬・ダイナマイト製造が続けられた。(菊池実1996「旧陸軍岩鼻火薬製造所」4)
戦時中の地図で見つけられたのは1940年発行のものなんですが、ご覧の通り、軍需工場なんで地図から消されてます・・・。
航空写真で比べてみましょう。
現在は木が成長してすっかり森になっていますが、
1948年に米軍が撮影した航空写真を見ると四角がたくさん見えると思います。
これは建物を囲っていた土塁で、今でも残っています。
下の写真見ても・・・よくわかりませんね。これは写真の腕のせいです・・・。
群馬の森へ行くとすぐにわかると思います
戦後、土地・設備等は大蔵省の管理するところとなったが、一九四六(昭和二十一)年に日本化薬株式会社に施設の一部が貸与の後払下げられ、また一九六四(昭和三十九)年には元ダイナマイト工場と原料工場を中心とした敷地に、日本原子力研究所高崎研究所が開所した。そして群馬県の明治百年記念事業の一環として県立公園「群馬の森」が、両者に挟まれた地帯に、一九七四(昭和四十九)年開園して今日に至っている。
(菊池実1996「旧陸軍岩鼻火薬製造所」4)
引用文中の日本原子力研究所高崎研究所は現在、量子科学技術研究開発機構 高崎量子応用研究所 に名前が変わっています。
群馬の森敷地内の建物はすっかり壊されてしまったそうですが、隣接する日本化薬や量子応用研究所の敷地内にはいくつか当時の建物が残っていて、群馬の森からも見ることができます。
この岩鼻火薬製造所の配置図が「新編 高崎市史 資料編10」5にあります。
図の説明に「昭和20年敗戦直前と推定」とありましたので、現在残っている建物と対比できそうです。
。。。なるほど、ということで2023年12月13日に休みを取って、人生初の胃カメラ飲んだ後に行ってきました。
再訪時は倉賀野駅から八高線で北藤岡駅まで行き、そこから歩いて向かいました。
このコースだと日本化薬の工場横を通ることができ、ここに残る当時のものをいくつか見ることができます。
12月2日のフィールドワークで案内していただいたのは下の地図で(6)〜(9),(11)ですが、他に見つけた場所も合わせて、残っている土塁などから場所の特定をしてみました。
なお、高崎量子応用研究所の敷地境界(青線)は「高崎量子応用研究所50年のあゆみ」6p.32の航空写真を参考に引いていますが、注1と書いているあたりの境界は自信があまりありません(ここが境界ならば(11)の建物は群馬の森敷地内にあるように思えますが、実際には柵の外)
再訪時の順番で、図の左下、現在は日本化薬の工場になっている場所から
この塀や門は当時のものと思われます。
中には入れませんが、柵の隙間から覗くと、説明板もあるようです(読めなかったけど)
群馬の森に入って、日本化薬との境界沿いに奥へ進むと
フィールドワークでも案内していただいた(6)〜(8)の建物
(8)の位置には配置図上、建物の記載はありませんが、壁だけ存在しています。
そして、唯一説明の看板がある「射場跡」
駐車場の川沿いの柵はおそらく当時のものだと思います。
駐輪場の奥の方
群馬の森の通用口あたりの塀も、(1)(2)と同じ作りなので、当時のものと思われます。
それから地図上(A)には「ダイナマイト発祥の地」碑
(B)には先ほど紹介した「記憶、反省、そして 友好」の追悼碑
(C)は群馬の森北入口
配置図では「猪之川橋」の記載がありますが、この橋は残っていないようです。
現在の北入口はもっと北側に合って、すぐ近くの橋の名前は「鎌倉橋」(1968年1月完成)です。
日が暮れてしまったんで、探索は終了しましたが、
配置図には境界標石の位置も記載されていますし、他にもいろいろ残ってそうです。
更新履歴
2024年1月5日 新規作成
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山田昭次 編纂『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料 2 (群馬県関係)』,緑蔭書房,2014.5 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
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藤岡町史編纂委員会 編『藤岡町史』,藤岡市,1957. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3021284 ↩︎ ↩︎
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e-gov「行政代執行法」 https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000043 ↩︎
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文化財保存全国協議会 編『明日への文化財』(38),文化財保存全国協議会,1996-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4426526 ↩︎ ↩︎
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高崎市市史編さん委員会 編『新編高崎市史 通史編 4 (近代現代) 別冊: 付表・年表』,高崎市,2004, http://id.ndl.go.jp/bib/000007511756 ↩︎
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「高崎量子応用研究所50年のあゆみ」 https://www.qst.go.jp/site/taka/2050.html ↩︎