田中正造と足尾銅山鉱毒事件を訪ねるツアー
2024年6月1日〜2024年6月2日訪問
ヒロシマ講座(竹内良男さん主催)で企画されたツアーに参加してきました。
『田中正造とその周辺』(随想社)
著者の赤上剛さんの案内でとても濃い1泊2日の旅でした。
このサイトでは毎度のことですが、
田中正造や古河鉱業足尾銅山鉱毒事件について細かく説明できるほどの知識はありませんので、自分の備忘のための関連資料へのリンクなどで整理しています。
帰ってきてから自分で調べたことも含みますので、
内容についての責任は全て当サイト管理人にあります。
実際に訪れた順番とは異なる順番でのご紹介です。
長くなってしまったので、お時間ある時にどうぞ。
初日
2024年6月1日
天気予報は怪しかったんですが、なんとか晴れ
道の駅かぞわたらせ google mapでこの辺
旅は渡良瀬遊水地からスタート
やたらとハートを強調したこの道の駅の展望台から
谷中湖が見渡せます。
そして、群馬・栃木・埼玉の三県境
なんでこんな田んぼの真ん中に三県境があるのか?
明治13年(1880年)から明治19年(1886年)にかけて陸軍の参謀本部が作成した「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」1という地図があります。
この迅速測図と現在の地図を比較できる農研機構の「歴史的農業環境閲覧システム」
を使ってこの辺りを比較すると
現在のくねくねした県境は明治時代の川の流れとピッタンコなのがわかります。(「この辺」と書いた矢印の先が三県境)
現在の谷中湖はハート型ですが、そのハートの窪みの辺りを比較してみます。
上の図で四角く囲った部分です。
明治時代の地図に「下宮村」という字が見えています。
ここは1889年(明治22年)に恵下野村、内野村と合併して谷中村になります。
この辺りは洪水が多いながら、その洪水で山の肥沃な土がもたらされ、魚もたくさん取れたため、自然豊富で豊かな村だったそうです。
旅の初日はこの谷中村と田中正造ゆかりの地を巡りました。
ここからは足尾銅山の歴史に沿って見ていきます。
足尾銅山は江戸時代から銅の生産をしていましたが、
1877年(明治10年)
古河市兵衛が操業を開始してから産銅量が増えていく
1885年(明治18年)
渡良瀬川で魚の大量死が始まる
1890年(明治23年)
渡良瀬川が大洪水を起こし、広大な農地が鉱毒水に浸かってしまう
この鉱毒被害の拡大は、産銅量の上昇による鉱毒物質の流出増大と、主として精錬用燃料としての山林乱伐、さらに煙害の進行による水源地帯の荒廃によってもたらされたものであった
(「新版 通史・足尾鉱毒事件」2 p.26)
1891年(明治24年)12月18日
第2回帝国議会で田中正造が質問書を出す
(前略)
足尾銅山ヨリ流出スル礦毒ハ群馬栃木両県ノ間ヲ通ズル渡良瀬川沿岸ノ各郡村ニ年々巨万ノ損害ヲ被ラシムルコト、去ル明治廿一年ヨリ現今二亙リ毒気ハ愈々其度ヲ加エ、田畑ハ勿論堤防竹樹二至ルマデ其害ヲ被リ、将来如何ナル惨状ヲ呈スルニ至ルヤモ計リ知ル可ラズ
(後略)(「田中正造全集 第7巻」3 p.41)
田中正造はこの後何度も質問書や質問で明治政府を追及しますが、明治政府は動きませんでした。
1896年(明治29年)7月から9月
再び渡良瀬川が大洪水
1896年(明治29年)10月
田中正造が被害町村による鉱業停止の請願を組織化するため、
有志と共に雲龍寺へ「群馬栃木両県鉱毒事務所」を設ける。
雲龍寺 google mapでこの辺
ここは「大挙東京押し出し」の出発点にもなります。
「大挙東京押し出し」とは数千名の農民たちが雲龍寺に集まり、鉱毒悲歌を歌いながら東京へ鉱業停止の請願へ向かう、というもので
1897年(明治30年)3月
第1回、第2回の大挙東京押し出し
1897年(明治30年)3月
第一次鉱毒調査会が設置され、鉱毒予防工事命令の発動と被害農地に対する地租免除からなる鉱毒事件処分を打ち出す
1897年(明治30年)5月
鉱毒予防工事命令書が出される。
ただ、この命令書による予防工事の効果は薄かったようです。
それが証拠に
1898年(明治31年)9月
また渡良瀬川が大洪水となり、予防工事による沈殿池が決壊して甚大な鉱毒被害が発生
第3回大挙東京押し出し
1900年(明治33年)2月
第4回大挙東京押し出し
この第4回大挙東京押し出しで、農民たちが官憲に弾圧される、いわゆる「川俣事件」が起きます。
・・・っと"知ってる"かのように書いてきてますが、この事件のあった川俣近くに2年間住んでいたことがあるにも関わらず、なぁんも知らないくらいでして、「新版 通史・足尾鉱毒事件」2をすごく参考にしてます。
1901年(明治34年)1月
製錬所上流の松木村が煙害のため廃村
松木村の跡は2日目に訪問しましたので、後ほど。
この年(明治34年)、「足尾鉱毒惨状画報」4という本が出版されています。
これは国会図書館の図書館・個人送信サービスを使って家でも読むことができます。
1901年(明治34年)12月10日
田中正造が天皇に直訴
直訴自体は失敗するものの、世論は盛り上がります。
この時の直訴状を見ることができるのが
佐野市郷土資料館 google mapでこの辺
ここには田中正造展示室
があり、
直訴状以外にも様々な資料が展示されています。
1902年(明治35年)3月
第二次鉱毒調査会設置
1903年(明治36年)5月
第二次鉱毒調査会の報告書が帝国議会に提出される
この報告書では、鉱毒被害の原因が予防工事"以前"の鉱山にあるとして鉱業存続を保障し、利根川と渡良瀬川の合流点付近に巨大な遊水池を建設することを提言していました。
実はこの報告書より前に内務省は栃木県谷中村、埼玉県の利島村・川辺村で遊水池計画を進めようとしていましたが・・・
1902年(明治35年)1月
利島村・川辺村が遊水池化反対闘争を展開し、1年近く闘った後に計画撤回
1903年(明治36年)1月
臨時県議会が遊水池化のための谷中村買収案を否決
ということが起きてました。
さらに時間を進めて
1904年(明治37年)7月 田中正造が谷中村へ入る
1904年(明治37年)12月
栃木県議会が秘密会で堤防修繕費名目による谷中村買収費を可決
帝国議会で災害土木補助費(谷中村買収費)を可決
1905年(明治38年)11月
「谷中村堤内土地物件補償に関する告示」によって、多くの村民が移住
1906年(明治39年)7月
栃木県が谷中村村会の決議を無視して藤岡町との合併を強行
1907年(明治40年)6月
堤内に残留していた16戸に対して栃木県が強制破壊を執行
それでも残留民は破壊された屋敷跡に仮小屋を建てて住み続けました。
1913年(大正2年)8月2日
田中正造が、佐野から谷中村へ帰る途中で病に倒れる
その倒れた家が
庭田清四郎家(田中正造翁終焉の家) google mapでこの辺
個人のお宅なのですが、田中正造が床に伏せていた部屋がそのまま残されています。
田中正造は34日間の闘病生活の末、この部屋で息を引き取ります。
近くに
田中正造翁終焉の地記念碑 google mapでこの辺
田中正造が亡くなった日の朝の言葉が残されています。
「同情と云う事にも二つある。此の田中正造への同情と正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情でハない。問題から言う時にハ此処も敵地だ。問題での同情で来て居て下さるのハ島田宗三さん一人だ。谷中問題でも然うだ。問題の本当の所ハ谷中の人達にも解かつて居ない。」
(『最後の語 大正2年9月5日 木下尚江筆』「田中正造全集 別巻」5p.525)
1913年(大正2年)10月12日
田中正造の本葬が惣宗寺でおこなわれる
惣宗寺 google mapでこの辺
「佐野厄よけ大師」ですね。
私ラジオっ子なので、年末になるとここのCMが流れてくるイメージが。。。
田中正造の骨は6ヶ所に分骨されています。
そのうちの1ヶ所はここ惣宗寺
前に石川啄木の歌碑
裏には
分骨を祀った神社が
田中霊祠 google mapでこの辺
この場所は渡良瀬川改修工事の土捨て場だったため、周りよりも高くなっています。
最初に紹介した雲龍寺も田中正造の分骨先の一つです。
雲龍寺 google mapでこの辺
ここの救現(ぐげん)堂には田中正造が祀られています。
こういう碑もありました。
今回の旅ではもう1ヶ所分骨先を訪れました。
田中正造誕生地墓所 google mapでこの辺
ここの道を挟んだお向かいにあるのが
田中正造翁旧宅(生誕地) google mapでこの辺
県道拡幅工事で移動している上、
屋根が藁葺きから銅板葺き(!)にされてしまっているそうですが、
田中正造も見て育ったであろう、百日紅(さるすべり)の木が残っています。
田中正造が亡くなった後も谷中村の闘いは続きます。
谷中村残留民は繰り返し立ち退きを強要されても応じませんでした。
しかし、
1917年(大正6年)2月
谷中村残留民が一定の条件のもとで県当局が用意した土地に移転
こうして人がいなくなった場所につくられた渡良瀬遊水地の歴史を見ていきます。
国交省 関東地方整備局 利根川上流河川事務所のHP「渡良瀬遊水地について」
によると
1902年(明治35年)に足尾鉱毒被害の防止対策の一つとして、氾濫被害の軽減のため渡良瀬川下流部に遊水地を造る計画が打ち出され、1922年(大正11年)に渡良瀬遊水地が完成しました。
渡良瀬遊水地周辺はもともと、渡良瀬川、巴波川、思川の流末が錯綜する低湿地であり、遊水地完成後も、周辺地域は大きな洪水被害に見舞われていました。 このため、遊水地をより効率的に活用するために1963年(昭和38年)から調節池化事業が行われました。その結果、遊水地の中には3つの洪水調節施設が整備されました。
昭和に入ると増大する水需要に対処するため、遊水地の中に貯水池を作る計画が策定されました。計画予定地には遊水地の建設によって廃村された谷中村の跡地が残っていたため、地域の要望を受け、役場跡や雷電神社跡など当時の面影が現在も残されています。 そのため、渡良瀬貯水池はハートの形となり、名称も『谷中湖(公募)』となりました。
…この説明に一部誤りがあることを赤上さんにご指摘いただきました。(ありがとうございます!)
「1902年に・・・遊水地を造る計画が打ち出され」とありますが、
正しくは
1902年(明治35年)3月17日に第二次鉱毒調査委員会が設置され、
1903年(明治36年)3月3日に遊水地化を含めた報告書を桂首相に提出
ですので、遊水地計画が打ち出されたのは1903年です。
「遊水地」「調節池」「貯水池」
という3ステップで進んできた、というのが関東地方整備局の説明です。
下の図は「渡良瀬遊水池総合開発事業の概要」6という文書から引用しています。
この貯水池化で建設されたのが冒頭の谷中湖なんですが、
なぜハート型なのか?
それは上部の凹部に旧谷中村の遺跡である延命院の跡と共同墓地があるためである。この墓地は1972年の夏、貯水池工事を進める建設省によって破壊される寸前のところで、旧谷中村残留民の子孫たちが工事用のブルドーザーの前に座り込み、文字どおり身をもって守りぬいたものである。
(「新版 通史・足尾鉱毒事件」 p.240)
なお国交省関東地方整備局のホームページにある資料「渡良瀬遊水地の成り立ち」7の記述だと
当初、貯水池は丸い形にする計画でしたが、谷中村中心部を残し、歴史を後世に伝えようという住民の気持ちと行動が実り、谷中村の中心部分をよけた貯水池計画としたところ、保存された旧谷中村役場の部分がへこみ、まるで「ハート」のような形となりました。偶然とはいえこのような特徴ある形の施設が住民の気持ちと行動によって出来上がったのです。
(「渡良瀬遊水地の成り立ち」より)
ん?あなた方が壊そうとしてたんじゃないの?。。。
では何とか守られた谷中村の跡を巡ります。
ここでは谷中村の遺跡を守る会の山口とみ子事務局長と吉村福枝理事にご案内いただきました。
入り口に
旧谷中村合同慰霊碑 google mapでこの辺
1971年(昭和46年)に、点在する墓石や石仏を集めて作られたものです。
こんな碑も
冒頭に出した明治時代の地図と現在の地図を再度。
今度は今回歩いた道筋を赤線で示しています。
そして看板にあった地図
①旧谷中村役場٠休憩所(大野孫衛門屋敷跡) google mapでこの辺
②雷電神社 google mapでこの辺
③延命院 google mapでこの辺
④延命院共同墓地 google mapでこの辺
さて、ここまでかなりざっくり書いてきました。
実際にはもっとたくさんの重要な論点があります。
それを学ぶための場所が
足尾鉱毒事件 田中正造記念館 google mapでこの辺
なんと入場無料。多くのボランティアの方々に支えられているとのこと。
ホームページはこちら
ここの事務局長である島野薫さんにも1日通してご案内いただきました。
2日目
2024年6月2日
雨。。。時折激しく降る中、2日目は足尾銅山の現在の姿を見てまわりました。
まずまわった場所の位置関係だけざっと概観しておきます。
この航空写真は国土地理院の航空写真を適当に繋いでますので、繋ぎ目のズレとか気にしないでね。。。
利用航空写真は国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
の以下4枚
id=1628617
撮影:2014/5/3
id=1628619
撮影:2014/5/3
id=1628591
撮影:2014/5/4
id=1628590
撮影:2014/5/4
該当写真を探すのに今昔マップ on the web
を利用しました。
①源五郎沢堆積場 google mapでこの辺
ここは1958年5月30日に突然決壊し、群馬県太田市毛里田地区の土地6000haが鉱毒被害を受けています。
住民達は長い闘いの末、1972年に政府の中央公害審査審査委員会に対して古河鉱業に損害賠償を求める調停を申請。1974年に古河鉱業が創業以来"初めて"加害責任を認め、損害賠償を支払う、ということがありました。
なお、2011年3月11日の東日本大震災時にもこの源五郎沢堆積場は決壊しています。
源五郎沢堆積場のすぐ上流に
②原堆積場 google mapでこの辺
道路から見るとコンクリートの壁が続くんですが、
航空写真で見ると水が溜まっていたりするのが見えます。
③足尾銅山観光 google mapでこの辺
1973年に足尾銅山が閉山し、1980年にオープンした観光施設
トロッコで坑内に入っていきます。
案内によれば坑道の総延長は約1200kmなんだそうです。
中では江戸時代から昭和までの採掘の様子が動く人形で説明されています。
近代日本の工業化を支えた光の部分にスポットを当てていて、
鉱毒被害に関する展示はなかったような気がします。
このすぐ近くから山の方を見上げると見えるのが
簀子橋(すのこばし)堆積場 google mapでこの辺
航空写真で見ると
町を見下ろす形で存在しているこの堆積場の異常さがわかります。
戦後すぐの航空写真と大体同じ範囲で比較すると、元々は普通の谷です。
1895年(明治28年)に発行された『古河足尾銅山写真帖』8で明治期の簀子橋の様子を見ることができます。
『親子三代足尾に生きて』9という本には昭和初期のこんな記述もありました。
いま簀子橋堆積場になっている辺りは広々とした川原で、良質のろう石がいくらも拾えた。
(『親子三代足尾に生きて』p.75)
1986年に日本科学者会議が『足尾鉱山簀子橋廃石堆積場調査研究報告書』10を作成しているんですが、本稿作成時(2024年6月)国会図書館のデジタル化作業のために見ることができませんでした。
ただ、関連する論文を読むことができました。
小林芳正(1987)「足尾鉱山簀子橋鉱さい堆積場の安全問題」11
藤井陽一郎(1991) 「現局面の足尾鉱さい堆積場問題–災害予防・住民・科学者にかんする1つの経験」12
それらによると
簀子橋堆積場は、1958年5月30日の源五郎沢堆積場の崩壊、1958年9月18日の原堆積場の事故をきっかけに、1958年建設が開始され、1960年1月15日に完成、以降同鉱山の唯一の堆積場として今日まで使用されてきた。
(小林芳正(1987)「足尾鉱山簀子橋鉱さい堆積場の安全問題」)
この堆積場がどんな仕組みなのかも、この論文から引用してみます。
1987年頃の仕組みですので、現在は変わってる部分もあるかもしれません。
堆堆場が建設された渋川の流水は、上流に設けられたえん提によって堰き止められ、右岸のトンネル(古河鉱業は「右岸山腹水路」と呼んでいる)を通じて,渋川の支流である天狗沢に導かれる。
(中略)
場内水位が急上昇したとき、かん止堤に越流を起こさせないためには、非常時に機能する非常用排水路がとくに重要となってくる。非常用排水路の呑口は、右岸のスライム(澱物と水)流入口付近に1箇所(渋川に導く),左岸のほぼ対称の位置に1箇所、左岸のより上流部に2箇所設けられている(底設水路に導く)。操業中に右岸かん止提付近から注ぎこまれた澱物と廃水のうち澱物はかん止堤付近に沈澱し、上流へ向かって流れる上澄水だけが左岸側に設けられている3箇所の角落とし(常用排水口)を通じて底設水路に導かれるようになっている。
(小林芳正(1987)「足尾鉱山簀子橋鉱さい堆積場の安全問題」)
そして、1986年に次のような提言(要旨)を行っています。
1)堆積場の安全性は、豪雨時・地震時とも十分高いとはいえず、本堆積場は、可能であれば使用を停止し,安定化を図ることが望ましい。使用停止が不可能な場合は、その安全性を常に監視し、適切な対策を講じることが必要である。
2)かん止堤内部の浸潤線の深さは、堤体の安定性に重大な影響をもつので,現況を把握するための調査を行なう必要がある。
3)安全性についての協議の場として、住民・町・古河業の参加する防災組織をつくることを提案する。
4)当面、堆積場の安全性の監視を強化し、適時に住民に広報を図ることが望ましい。
5)万一,推積場が決壊した場合に備えて、かん止堤の下流に適切な対策工事を考慮する価値がある。
6)渋川下流(町中心部)の安全のためには,天狗沢(1959年まで使用)の安全性の検討も望ましい。(小林芳正(1987)「足尾鉱山簀子橋鉱さい堆積場の安全問題」)
提言から40年近く経つ今現在もこの簀子橋堆積場は現役で、
中才浄水場で沈殿した鉱毒汚染泥がこの簀子橋堆積場に送られているそうです。
④松木村跡 google mapでこの辺
ここは通行証がないと車で入ることはできません。
今回は元足尾町議で新聞「明るい町」編集者の藤井豊さんのご案内で車で入って行くことができました。
松木村の煙害を『足尾鉱毒惨状画報』4で見てみます。
第三十四図の方は烟毒のため草は死し、木は枯れ、岩壊(くづ)れ、小石飛び、全く何物をも植ふる能はざる荒廃地を示したものである。
(『足尾鉱毒惨状画報』p.47)
第三十五図の方は、白晝(はくちう)人家の戸を閉せる處であつて、烟毒が脱硫塔から吹き出して来て、四方に舞ひ下り、何時も朧々たるがために、人民は皆戸を閉ざして生活して居る處を示したのである。
(『足尾鉱毒惨状画報』p.47)
結局、松木村は1901年(明治34年)に廃村消滅してしまいます。
その後古河鉱業はここを堆積場にして、大量の「鉱さい」(製錬カス)の捨て場にしました。
ここに緑を取り戻そうと、
「森びとプロジェクト」
や
「足尾に緑を育てる会」
が植樹を続けています。
⑤龍蔵寺 google mapでこの辺
お寺に入って左側に松木村廃村時の墓石を重ねたピラミッドがあります。
入って右側には「渡坑夫供養塔」
龍蔵寺から川を挟んだ向こう側に
製錬所跡 google mapでこの辺
⑥朝鮮人強制連行犠牲者慰霊碑 google mapでこの辺
足尾銅山には1940年8月から1945年5月までに2416人の朝鮮人が連行されてきました。13
役場の資料やお寺の過去帳などから0歳から71歳まで73人の朝鮮人の死亡年月日や死因などが判明しているそうです。
1995年にここへ仮墓標が建てられ、毎年追悼式が開かれているそうで、
昨年2023年10月1日に開かれた追悼式の様子が新聞記事になっていました。
「真実にできる限り迫る」 足尾銅山で亡くなった朝鮮人の追悼式開催 (朝日新聞デジタル2023年10月2日)
近くの木に昔の仮墓標などが立てかけられていました。
⑦中国人殉難烈士慰霊塔 google mapでこの辺
257人の中国人が強制連行されてきており、109人が犠牲になっています。14
碑の裏にはこの109人の名前が刻まれ、もう1人の名前が刻まれた小片が付け加えられており、中国人通訳の方の名前だと言われているそうです。
下の新聞記事によれば、2010年以降、塔前での慰霊祭は行われていないようです。
日中国交正常化から50年 風化進む中国人慰霊塔 (朝日新聞デジタル 2022年10月5日)
2日目冒頭に出した足尾銅山周辺の航空写真よりもずっと下流にあるのが
草木ダム google mapでこの辺
ここの説明板には一言も書いてありませんが、
上流から流れてくる鉱毒はここに溜まり続けているわけで、
それに関する設備があったり、監視がおこなわれたりしています。
国土交通省関東地方整備局 関東地方ダム等管理フォローアップ委員会
第29回委員会(令和2年12月7日開催)の資料
「草木ダム定期報告書の概要」p.56
今回訪れた場所の紹介は以上で終了です。
2日目が雨だったこともあり、まだ見ていない場所がたくさんあります。
是非とも再訪したいところです。
それにしても、
一番辛い状態に置かれている人が一番頑張らなければいけない上に、その頑張りが圧倒的な権力でねじ伏せられていく。戦争に勝つことや経済成長という"国益"のために「しょうがない」犠牲だとして片付けられてしまう。
そういうことが、足尾銅山の時代から福島第一原発の事故、そして今もずーっと続いています。
それら全ての場所で原田正純さんの言う「人を人と思わない人間疎外」15が起きていて、多くの人はそれに無関心、というかそもそも気づいてすらいなくて、“お上"が言うことが正しいと思っちゃってる。(私自身、他人の事は言えませんけど・・・)
日本人の気風ハ下より起らず上よりす。民権も官よりす。たとへバ塩原村村役場の質素、構造の麁末なる、他の物質の花美佳美大げさなるニ似合しからず、他物ノ奢侈ニ似ず、他人ノ別荘の盛大なる二似ず。塩原役場ハ其間ニありて見る影もなき小屋なり。之れ案ずるに、貴顕富豪多く出没して、村役人を見る小使の如く奴隷の如くす。故ニ村民村役場を尊ばず。尊ざる、尊ばれざるもの勢力なし。終ニ此極ニ到れるなるべし。日本の民権ハ民人より発揚せるニハあらざるなり。憲法すら上よりせり。嗚呼、一種不思儀の気風なり。日本今君主専制国の如く、又立憲の如く、盗賊国の如く、此三種を以てせり。危し危し。
(『明治44年(1911年)11月20日 日誌』「田中正造全集」第12巻16 p.586)
ちゃんと自分の頭で考えて、「人間疎外」の現場に気付けるようにならないといけないなぁ、と思います。
(補足)
今回、『通史・足尾鉱毒事件』2をかなり参考にしたのですが、
日本貿易振興機構 アジア経済研究所の
デジタルアーカイブス「日本の経験」を伝える
というページに、
かなり参考になりそうな成果出版物が公開されていましたので、ここでご紹介しておきます。
研究テーマ別に論文を読む(公害)
ここ、全般的に興味深い内容が並んでますが、
その中で足尾鉱毒事件に関しては以下のような論文を読むことができます。
・第1章:足尾銅山鉱毒事件ー公害の原点ー (東海林 吉郎/菅井 益郎)
・足尾銅山山元における鉱害(飯島伸子)
・足尾銅山鉱毒事件(東海林吉郎)
・足尾銅山の鉱毒問題の展開過程(菅井益郎)
・足尾銅山の技術と経営の歴史(星野芳郎)
・技術導入の社会に与えた負の衝撃(宇井純)
更新履歴
2024年6月18日 新規作成
2024年6月20日 以下誤記修正(赤上さんありがとうございます!)
(誤)1904年(明治37年)4月 田中正造が谷中村へ入る
(正)1904年(明治37年)7月 田中正造が谷中村へ入る
(誤)1902年(明治35年)1月 第二次鉱毒調査会設置
(正)1902年(明治35年)3月 第二次鉱毒調査会設置
関東地方整備局 HP「渡良瀬遊水地について」の記述間違い追記
2024年7月13日 以下誤記修正
「松木村は1901年(明治34年)1月に廃村消滅」
1月は「煙害救助請願書」を政府に提出した月で、その年の暮れに廃村なので「1月」という記述削除
-
東海林吉郎, 菅井益郎 著. 通史・足尾鉱毒事件 : 1877~1984. 新版, 世織書房, 2014.8. 978-4-902163-73-5. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I025634500 (図書館・個人送信サービス) ↩︎ ↩︎ ↩︎
-
田中正造全集編纂会 編『田中正造全集』第7巻 (衆議院演説集 1),岩波書店,1977.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12407849 (図書館・個人送信サービス) ↩︎
-
松本隆海 編『足尾鉱毒惨状画報』,青年同志鉱毒調査会,明34.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/847270 (図書館・個人送信サービス) ↩︎ ↩︎
-
田中正造全集編纂会 編『田中正造全集』別巻,岩波書店,1980.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12407868 (図書館・個人送信サービス) ↩︎
-
国土交通省関東地方整備局ホームページ「渡良瀬遊水池総合開発事業の概要」 (PDFファイルへのリンク) ↩︎
-
国土交通省関東地方整備局ホームページ「渡良瀬遊水地の成り立ち」 (PDFファイルへのリンク) ↩︎
-
小野崎一徳 編『古河足尾銅山写真帖』,小野崎一徳,明28.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/847461 (図書館・個人送信サービス) ↩︎
-
上岡健司 著. 親子三代足尾に生きて : 「鉱山の仲間とともに」補稿集, [上岡健司], 2023.4. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I032845534 ↩︎
-
足尾鉱山簀子橋廃石堆積場調査研究報告書, 日本科学者会議災害問題研究委員会, 1986.3. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001892861 ↩︎
-
小林 芳正. 足尾鉱山簀子橋鉱さい堆積場の安全問題. 日本の科学者 = Journal of Japanese scientists / 日本科学者会議 編. 22(5) 1987.05,p.p283~288. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I3124843 ↩︎
-
藤井 陽一郎. 現局面の足尾鉱さい堆積場問題–災害予防・住民・科学者にかんする1つの経験. 日本の科学者 = Journal of Japanese scientists / 日本科学者会議 編. 26(3) 1991.03,p.p166~170. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I3698580 ↩︎
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古庄正. 足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理. 駒澤大学経済学論集26(4)1995-03 駒澤大学 学術機関リポジトリ ↩︎
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猪瀬建造 著. 痛恨の山河 : 足尾銅山中国人強制連行の記録. 増補改訂版, 随想舎, 1994.7, 10.11501/13194086. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002401309 ↩︎
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原田正純 著. 水俣が映す世界, 日本評論社, 1989.6. 4-535-57797-8, 10.11501/13165843. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001998141 ↩︎
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田中正造全集編纂会 編『田中正造全集』第12巻 (日記 4),岩波書店,1978.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12407858 p.586 ↩︎