2024年8月6日ヒロシマ
1945年の8月6日は広島が原爆で攻撃された日
2024年8月6日(火)
前日の晩から広島へ行ってました。
まずは前日夜の平和公園の様子から
8月6日朝の警備が今年からは例年以上に厳しくなり、
原爆ドーム周辺も規制されるということで、
ドーム前でもゲートの準備やらやってました。
でも、この注意書きはおかしくないですか?
注意
平和記念式典を安全かつ厳粛に行うため、午前5時から午前9時までの間、式典会場(平和記念公園)内では次の行為を禁止します。
一 危険物、大きな音を発するもの(マイク・拡声器・楽器類等)、プラカード・ビラ・のぼり・横断幕等、係員が式典の運営に支障を来すと判断したものの持ち込み
二 ゼッケン・タスキ・ヘルメット・鉢巻等の着用
三 小型無人機(ドローン等)の飛行
四 物を投げる、大きな音声を発する、立入不可エリアに無断で侵入するなど、式典の妨げとなるような行為
五 他の公園利用者の通行その他の公園の利用に支障を来すと判断される行為
六 公園の利用者間の調整を図るために市職員等が実施する警備に支障を来すと判断される行為禁止行為に該当すると認められる場合は、行為の中止を要請します。当該要請に従わない場合は、式典会場(平和記念公園)外への退去を命令することがあります。
広島市
8月6日の平和公園は、それぞれの人がそれぞれの方法で犠牲者を追悼し、平和を願う日だと私は思います。
こんな注意書きが必要な「安全かつ厳粛な」平和記念式典って、なんなんでしょう。
一体広島市は何から何を守ろうとしてるんだか。。。
そして8月6日朝、平和公園周辺はお巡りさんだらけ。
私は公園の外にある子供達の慰霊碑をいくつかまわっておりました。
それぞれの碑のもうちょっと詳しい説明はこちらのフィールドワーク記事
を参照ください。
8時15分には
広島女高師・山中高女・第二県女慰霊碑
それから
県立広島一中追憶之碑
ここの慰霊祭は7月に行われています。
第一県女原爆犠牲者追憶の碑
市立高女原爆慰霊碑
ここで、栗原貞子さんの「生ましめんかな」のモデル小嶋和子さんから直接お話を伺うことができました。
「色々な偶然によって生かされている」
とおっしゃっていました。
少し昔の新聞記事ですが
中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター16年9月3日「焦土の闇生まれた光 「生ましめんかな」モデル小嶋和子さん70歳」
こちらは有料記事
毎日新聞2023/2/19「2023・冬/上 小嶋和子さん(77) 焦土で産声「生ましめんかな」モデル 命の樹、詩で感謝紡ぐ」
そして、「平和のことよろしく」碑
「平和のこと よろしく 坂本文子」と刻まれています。
関連記事
中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター19年2月4日「市女生犠牲 母の思い 故坂本さんら娘の最期語る追悼祈念館の映像に反響」
ちなみにこの記事で紹介されている映像は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館のホームページで公開されています。
坂本文子さんの証言やこの碑も紹介されています。
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 これまでの企画展
「流燈 広島市女原爆追憶の記 最も多くの犠牲を出した女学校の記録」
ここで、一緒に歩いた方々とは別れ、
1人で大田洋子文学碑へ向かいました。
子供の頃よく行っていた、こども文化科学館
そして隣のファミリープール(カナヅチなのでこっちは行ったことない)
の先にでーんとEDION PEACE WINGというサッカースタジアムができていて、
ここら辺にある、と聞いてたんですけど、案内板には出ていません。
ちなみにこのPEACE WINGにはこんな絵がどーん。
肝心の大田洋子文学碑は西側メインスタンド近くの川沿いにありました。
先の案内板のこの赤丸の辺りにあります。
ここまで行けば別の案内地図があるんですが、ここにあっても辿り着けないじゃん。
この大田洋子文学碑はスタジアム建設のために2020年に撤去
スタジアム完成でこの場所に移設されてきたものだそうで、
元々は1978年に建立されています。
…私は広島で生まれ育ちながら知りませんでした。
中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター24年8月3日「大田洋子文学の継承誓う碑前祭 スタジアムパークで46年ぶり」
どういう趣旨で作られた碑なのか?については
1978年に「新日本文学」1という雑誌に掲載された、大田洋子文学碑建立委員会の「大田洋子文学碑建立についてのお願い」という文書を引用します。
作家大田洋子は、広島市白島町で被爆しました。以後心身に刻みこまれた原爆被爆の体験をもとに、『屍の街』『人間襤褸』『半人間』『夕凪の街と人と』など数多くの原爆作品を残しております。
原民喜、峠三吉の亡きあとも、身をもって原爆に追いつめられた半人間的極限の世界を書き、核時代の人間がどうあらねばならないかを問いつづけ、惜しくも1963年12月10日に急逝しました。
大田洋子は広島市(進徳高女卒)出身で、東京に進出してからも度々帰省し、基町の原爆スラムを訪れておりました。その縁りの場所に、このたび文学碑を建立し大田洋子の文学を賛え、併せて核時代の原点をひろく告知し、平和への道標といたしたく存じます。
ご多端の折と存じますが、何とぞ右趣旨をおくみとり下さいまして応分の御協力をお願い申しあげます。
昭和52年12月10日
大田洋子文学碑建立委員会(『新日本文学』33(2) p.77)
この碑のデザイン・設計は四國五郎さんが手掛けられています。
四國光さんの「反戦平和の詩画人 四国五郎」2によれば
その力の入れようは、峠たちと「辻詩」を協働制作し、街なかに市民の抵抗の声を露出させたように、単なる文学碑という以上に、大田洋子の文章と自分の造形で、被爆体験を街なかに恒久的に表現物として配置し、被爆の現実と実相を日常生活の中で想起して欲しい、そのような思い入れで作ったかのようだった。
(「反戦平和の詩画人 四国五郎」p.297)
複数の石が組み合わされている構成で
一番大きな石には大田洋子さんの「屍の街」からとった一文
少女たちは
天に焼かれる
天に焼かれる
と歌のやうに
叫びながら
歩いて行った
これは実物見ることをお勧めします。
動かない石のはずなのに、この場に立つとなんだか動きが見えるんです。
「おー」って感じます。(私の語彙不足で多分伝わらない・・・)
ちなみに、公園の案内図右下に出ている「旧陸軍施設遺構展示」って何かいな?と思って行ってみると
馬碑
馬碑の由来
昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵営西南太田川沿いに建立された。
昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士が犠牲になった。
その中で、馬碑は熱風を受けながらも唯一残った。昭和五十七年、廣輜会(原隊の戦友会)により、隊跡馬碑と表示、復元された。
私の目が節穴でなければ、
案内板で「旧陸軍施設遺構展示」と書かれている場所にはこの碑しか見つけられなかったんで、多分この碑のことを言ってると思います。
案内板に大田洋子文学碑はのってなくて、「旧陸軍施設遺構展示」として馬碑がのっている。
この差は何なんだろう、と考えちゃいました。
最後に行ったのは紙屋町交差点のところにある、みずほ銀行のATMコーナー
閉店直前だったんですが、
写真撮影の許可をいただいて。。。
説明も書いてありました。
昭和20年(1945年)8月6日、原爆により尊い犠牲となられた日本興業銀行広島支店、安田銀行広島支店の殉職員の芳名を刻んでおります。
謹んで哀悼の意を表し、鎮魂の言葉を献げております。
以上で私の2024年の8月6日広島滞在は終了です。
更新履歴
2024年8月12日 新規作成
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新日本文学会 [編]『新日本文学』33(2)(366),新日本文学会,1978-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6079185 ↩︎
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四國光 著『反戦平和の詩画人 四國五郎』藤原書店 https://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865783872.html ↩︎